二ノ橋

マーカーは二ノ橋です。

二ノ橋(間部橋、日向橋)
[仙台坂日向坂を結ぶ橋です。麻布側に飯野藩保科家の上屋敷がありました。そこに出入りしていた信州保科村の反物屋清右衛門は、蕎麦を打つのが上手いことから、藩主の助言により蕎麦屋に転向しました。名前も布屋太兵衛と改め、藩邸に近い永坂で「永坂更科」を開店しました。「更科」とは、長野県千曲市にある地名「更級」の「更」と保科家の「科」を合わせたものと言われています。白い蕎麦粉を使用した高級な「御膳蕎麦」が評判となり、増上寺の僧もよく食されたということです。  (「古川今昔 – 港区」より)]

[二ノ橋は日向橋の別名がある一方で、橋の東側に間部若狭守の屋敷があったため、間部橋と呼ばれることもあったという。  (「麻布二ノ橋界隈 – 大佗坊の在目在口 – Gooブログ」より)]

[慶安元年(1648年)6月26日、7000石を知行していた旗本保科正貞大坂定番となって摂津国有馬郡河辺郡能勢郡豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が2代将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。しかし正之が秀忠の子として認められると正貞が改めて保科家の家督を相続することになったのである。正貞は寛文元年(1661年)11月1日に死去し、跡を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子だった保科正英に2000石を分与している。延宝5年(1677年)7月7日、正景は大坂定番になったことから丹波国天田郡内に5000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866年)5月26日に若年寄にまで栄進し、第二次長州征伐では征長軍の指揮を務めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益も連座して謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑して罪を許されている。  (wikipedia・飯野藩より)]

二ノ橋(間部橋、日向橋)資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享(1741-1748年)之頃」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下、「保科弾正忠(保科正富」右下新堀川に「二ノ橋」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(宝暦13 [1763])」[コマ番号3/5・絵図四つ切右下、古川左に保科越前守(保科正富)上屋敷、右に間部主セン(間部詮茂)上屋敷が記述され、その間の橋が二ノ橋(間部橋、日向橋)になります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」[コマ番号2/5・絵図左下、保科能登守(保科正丕)右上に二之橋が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図上中央に「二の橋○間部橋ト云」と描かれて、橋左下に保科弾正忠(保科正丕)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は二ノ橋で、カメラ東方向が日向坂です。

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