佐野藩堀田家下屋敷跡

マーカーは佐野藩堀田家下屋敷跡です。

関連リンク – 佐野藩堀田家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP825・コマ番号456/553から佐野藩屋敷の変遷について記載されています。P828・コマ番号458/553「下屋敷 麻布広尾」がこの地になります。

堀田正衡
[堀田 正衡(ほった まさひら)は、下野佐野藩主(当時は近江堅田藩主)堀田正敦の五男。寛政8年(1796年)4月19日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月11日、従五位下・左京亮に叙任。後に摂津守に改める。天保3年(1832年)1月19日、父正敦の死去により家督を継いだ。天保5年(1834年)4月28日、奏者番に就任する。天保7年(1836年)9月4日、若年寄に就任する。天保14年(1843年)10月24日、退任して従四位下に昇進する。安政元年(1854年)に60歳で死去した。長男の堀田正修は既に没していたため、その子・正頌が跡を継いだ。  (wikipedia・堀田正衡より)]

堀田正頌
[堀田 正頌(ほった まさつぐ、天保13年11月13日(1842年12月14日) – 明治29年(1896年)5月11日)は、堀田正修の長男。
父が早世したため、嘉永3年(1850年)2月9日に祖父の正衡の継嗣となる。安政元年(1854年)11月29日、祖父の死去により13歳で家督を継いだ。若年のため、西村茂樹が補佐役となって藩政を取り仕切った。藩校・観光館を設立するなど、優れた政治手腕を見せている。安政4年(1857年)9月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下・摂津守に叙任する。後に右京亮、摂津守に改める。
慶応4年(1968年)4月4日、新政府軍に武器を献上する。同年10月23日、明治天皇に拝謁する。明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により佐野知藩事に任じられた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により退任する。  (wikipedia・堀田正頌より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図四つ切右下・笄川両サイドに堀田摂津守(堀田正衡)下屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [10]拾七中(寛永元年・1848年)」(コマ番号4/5・絵図中央下方向に堀田摂津守(堀田正衡)下屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [12]拾七下(寛永元年・1848年)」(コマ番号2/5・絵図中央上、大嶋甲斐守の場所が堀田摂津守(堀田正衡)になります。]

東京市拾五区区分全図 第七 麻布区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左下・広尾町54-59番が足守藩木下家上屋敷跡(笄川の北側部)と思われます。)

東京府豊多摩郡渋谷町全図|公益財団法人特別区協議会」(地図四つ切右下・大字麻布広尾町の61番とその下の一部が足守藩木下家上屋敷跡(笄川の南側部)と思われます。)

カメラ位置は外苑西通り広尾橋交差点で、カメラ南方向外苑西通りを含む道路両サイドが佐野藩堀田家下屋敷跡になります。(佐野藩堀田家下屋敷跡範囲:港区南麻布4丁目1,渋谷区広尾5丁目6,7,11,14)