マーカーは飯野藩保科家上屋敷跡です。
関連リンク- 信濃飯田藩堀家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP369・コマ番号228/553から飯田藩屋敷の変遷について記載されています。P371・コマ番号229/553「下屋敷 芝新堀端 麻布区新堀町」がこの地になります。
堀親義
[堀 親義(ほり ちかよし)は、文化11年(1814年)1月28日、信濃飯田藩第10代藩主堀親寚の次男として生まれる。幼い頃から病弱な上、凡庸だったために父から嫌われ、廃嫡されかけたこともあったという。しかし紆余曲折の末に弘化3年(1846年)、父の隠居により家督を相続した。
父と同じように幕閣入りし、嘉永6年(1853年)に奏者番に就任、文久3年(1863年)に寺社奉行に就任、元治元年(1864年)に講武所奉行に就任した。しかし元治元年(1864年)11月、水戸藩の武田耕雲斎率いる天狗党が領内に侵入、留守を預かる家臣は城を固めるのみで攻撃を加えず、美濃国に通じる清内路関所をそのまま通過させ、幕府追討総督の田沼意尊の逆鱗に触れた。そのため同年12月に幕府は親義に対し、講武所奉行の解任と2000石を減封を命じ、清内路関守衛の任務は高遠藩に移された。また、親義は藩主として家臣たちの処罰を行ったものの、不満も強く、藩内に大きなしこりを残すことになった。家臣から藩主の押込の意見も出るようになる。
慶応2年(1866年)5月、大坂警備のために上坂、同年10月に京都見廻役を命じられる。慶応4年(1868年)1月、元家臣の讒言により、徳川慶喜に通じているとして家老石沢らを明治政府に捕えさせた。家臣団は抗議、反発し、親義を隠居させることになる。同年2月、病気を理由に隠居届を提出、同年3月に隠居を許可された。隠居した親義は領地に戻り、謹慎することになる。 (wikipedia・堀親義より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図四つ切右上・三ノ橋右下に堀石見守(堀親義)下屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」[コマ番号4/5・絵図四つ切右上端に堀兵庫頭(堀親義)下屋敷が描かれています。]
カメラ位置は古川橋交差点で、カメラ北西方向が信濃飯田藩堀家下屋敷跡になると思います。(信濃飯田藩堀家下屋敷跡範囲:港区南麻布2丁目12,13)