マーカーは八戸藩南部家下屋敷跡です。
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南部信順
[南部 信順(なんぶ のぶゆき)は、薩摩藩主・島津重豪の十四男として誕生。幼名は虎之助、篤之丞。初名は久命。
天保9年(1838年)に陸奥国八戸藩8代藩主・南部信真の婿養子として迎えられる。重豪の息子の養子先は中津藩、福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩が多く、2万石しかない小藩・八戸藩への養子は異例であった。お由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥と共に尽力し、幕府に運動した。同年12月1日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。同年12月16日、従五位下・近江守に叙任する。天保13年(1842年)5月11日、信真の隠居により家督を相続する。安政2年(1855年)12月16日、従四位下に昇進する。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けることとなる。というのも、信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために、最初から仮想敵として見られていたからであった。信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功した。
明治2年(1869年)6月22日には八戸知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県により知藩事職を辞任。同年に家督を長男・栄信に譲った。
翌明治5年(1872年)に死去、享年59。 (wikipedia・南部信順より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央右方向・南部美濃守下屋敷上、天真寺右に南部遠江守(南部信順)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号2/5・絵図中央下に南部遠江守(南部信順)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は有栖川宮記念公園南東交差点で、カメラ東南東方向が八戸藩南部家下屋敷跡になると思います。