内田坂(小見川藩内田家上屋敷跡)

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    国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP475・コマ番号281/553から小見川藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 麻布日ヶ窪」がこの地になります。

    内田坂(内田豊後守上屋敷跡)
    [現在南山小学校、都立六本木高校のある山は、江戸時代には内田山と呼ばれていました。
    これは、小見川藩内田氏千葉県香取郡小見川町)の上屋敷万治元年(1658年)2月11日からあったためついた里俗の地名です。
    内田氏は今川氏家臣から永禄11年(1568年)徳川氏に仕えた当初800石ほどの旗本でしたが、正信の代に相模で1000石の加増、さらに寛永16年11月、正信が将軍家光の御小姓組番頭となると、下野小見川8200石を加増され10000石となって大名に列せられます。
    その後の慶安2年(1649年)にも正信は下野都賀・阿蘇で5000石を加増され15000石となって内田家歴代でも最も繁栄を極め、将軍家光の寵愛がいかに深かったかが伺われます。そして慶安4年(1651年)4月20日、家光が崩御すると正信は即刻帰宅し、幕府の重臣である堀田正盛阿部重次と供に殉死しました。
    その際、内田正信、阿部重次の家臣らも主君に続いて殉死したが、堀田正盛の家臣は主君の後を追う者が一人もいなかったといいます。日頃から規律の厳格な堀田家の家臣が殉死せず、逆に家臣の乱暴が度々評判となっていた内田、阿部両家の家臣は殉死したため、外見とは違い堀田家は家来の待遇が良くなかったのだろうと町の者の噂となりました。
    その後の内田家は、享保9年(1724年)正偏の代に狂気のため心神喪失して妻女に斬りつけ蟄居減禄、また天保8年(1837年)正容の代にも不行跡で減禄となるなどしますが、その後幕末まで小見川藩を授かっていました。明治2年(1869年)内田正学は小見川県知事、子爵となり貴族院議員を勤めました。その後内田山は、それまで山全体が邸宅であったのを麻布十番方面から桜田町方面にぬける坂道が道路となったので、内田坂の名が生まれます。
    明治33年12月31日の朝日新聞記事に、
    渡辺国武蔵相は、28日、伊藤首相の懇書に接し、早急に馬車で内田山の井上馨伯邸に駆けた。数刻にわたった井上伯と会談の後、そのまま首相が滞在している神奈川大磯に赴いた。」
    との記事があり、一般的にも内田山と呼ばれていたことがわかります。またこの 渡辺国武蔵相は当時のがま池保有者であり、この時渡辺蔵相は同じ宮村町内を馬車で移動した事が記されています。そして文中の井上馨の他に伯爵芳川顕正も後に住まいを内田山に構える事となります。
    六本木高校敷地の最西端に四時佳興(しいじのかきょう)碑があります。これは内田豊後守屋敷の庭にあったもので代の哲学者「程顕」の詩の一説とのことです。
    <四時佳興>
    この碑はここ城南高校の地にあった内田豊後守の屋敷の庭に置かれていたもので宋代の哲学者 程顕の詩の一説を刻んだものです。

    秋日偶成   程顥

    閒来無事不従容  睡覚東窓日已紅
    万物静観皆自得  四時佳興興人同
    後畧

    ゆったりと静かに眺めてみると万物は皆それぞれに所を得ている。春の花秋の月と四季折々の移り変りの面白さは、誰をも同じに楽しませてくれるという、意味です。  (「Blog – Deep Azabu: 内田山由来」より)]

    国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図」(絵図中央左下・増上寺隠居屋敷下に内田豊後守(内田正道)上屋敷が描かれています。)

    東京図測量原図 : 五千分 – 内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図左中央上、麻布宮村町の間が内田豊後守上屋敷跡になります。)

    東京都立図書館アーカイブ – 東京市麻布区」(出版年-1911.8)[絵図中央・宮村町が内田豊後守上屋敷跡と思われます。]

    内田坂 – Google Map 画像リンク

    内田坂上・カメラ東南東方向が内田坂です。(小見川藩内田家上屋敷跡範囲:港区元麻布3丁目1,2,6~8,10,港区六本木6丁目16)

    カメラ北方向に四時佳興(しいじのかきょう)碑があります。

    内田坂中・六本木高等学校の渡り廊下前

    内田坂下・カメラ南方向が内田坂です。