マーカーは出羽新庄藩下屋敷跡(フランス大使館)です。
関連リンク – 新庄藩戸沢家上屋敷跡(駐日アフガニスタン大使館・駐日パナマ大使館・駐日パラオ共和国大使館)、新庄藩戸沢家抱屋敷跡
出羽新庄藩下屋敷跡(フランス大使館)
[江戸幕府が参勤交代を義務付けた寛永15年(1635)頃から幕府は、大名家に江戸屋敷を与えた。
江戸城周辺から郊外にかけて複数の屋敷用地が与えられ、屋敷の用途や江戸城からの距離により上屋敷、中屋敷、下屋敷の種類があった。戸沢家江戸屋敷は、幾多の変遷を経て嘉永年間(1848~1854)の江戸切絵図で見る限り麻布絵図に二か所、青山絵図に一か所の三か所が確認できる。
他の記録では、上屋敷は飯森狸穴町に約九千坪、下屋敷は麻布白銀に約三千五百坪と下豊沢村に約一万坪の二か所あるとなっていて切絵図と附合する。
そこで、その界隈を温ねるために江戸切絵図などを参考に現在の場所に当てはめてみる。切絵図にある寺社や大きな屋敷などを参考に見ていくと、上屋敷の近くの一乗寺・真淨寺が現存していて、港区東麻布の旧飯倉小学校跡や麻布台の東京アメリカンクラブの場所であることが分かる。麻布白銀にあった下屋敷は、隣地が光林寺、少し離れた天現寺や南部屋敷(有栖川宮記念公園)などから港区南麻布のフランス大使館の場所と分かる。ここには戸沢家の庭園が遺されている。
下豊沢村の下屋敷は、東北寺・祥雲寺との関係から聖心女子大(堀田屋敷)の西隣りにあったものと思われる。この三か所の江戸屋敷は、約二kmの範囲にあり、現在は、それぞれ高級住宅街になっているが、江戸時代は後進地域で、特に広尾は、広尾原と呼ばれる広大な原野だったようだ。 (「かむてん取材記27年2月 戸沢家江戸屋敷界隈を温ねる – 新庄市」より)]
[戸沢氏は鎌倉時代以来、出羽国に勢力を伸ばした名門であったが、戦国時代には出羽角館に割拠する小大名となっていた。しかし、「鬼九郎」と称された勇将・戸沢盛安の代になると着々と勢威を拡大した。しかし盛安は小田原征伐に参陣した直後に病に倒れ、24歳で死去した。その盛安の子・戸沢政盛は関ヶ原の戦いで東軍に属したため、存続を許されて所領を常陸松岡藩へ移封された。そして元和8年(1622年)、山形藩主であった最上義俊が家中騒動を理由に改易された後を受けて、6万石で入部し、新庄藩を立藩した。当初、最上家の家臣・鮭延家の居城であった真室城を居城としていたが、新庄城を築城してここを本拠とした。
その後戸沢家が幕末まで11代続きました。 (wikipedia・新庄藩より)]
出羽新庄藩下屋敷跡資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保(1741年-1744年)延享(1744年-1748年)之頃」(コマ番号6/7・絵図中央に「戸澤上総介」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図[嘉永4(1851)年]」[絵図四つ切左上に「戸澤上総介上屋敷」が描かれ、絵図右端中央に「戸澤上総介下屋敷」が描かれています。大使館公邸は青木甲斐守(麻田藩)下屋敷の位置にあたるようです。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図[嘉永6(1853)年]」(絵図左下・「東北寺」右下に「戸澤上総介下屋敷」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [10]拾七中[嘉永元(1848)年]」(コマ番号4/5・絵図右端中央に戸澤千代鶴下屋敷、青木美濃守下屋敷を含む旗本屋敷がフランス大使館です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [9]拾七中」(コマ番号158/189~174/189で出羽新庄藩下屋敷周辺の変遷が解ります。)
カメラ北北東方向が出羽新庄藩下屋敷跡(フランス大使館)です。