四の橋(古川・渋谷川)

マーカーは四之橋です。

四の橋(古川・渋谷川)
[「渋谷」の地名は、渋谷川を流れる渋色(赤茶色)の水に由来する、という説がある。 渋谷川流域では渋谷粘土層と呼ばれる特有の地層が水を遮るため、上層にある関東ローム層(赤土層)に染み込んだ雨水は、その鉄分を溶かし込みながら川へと排出され、水を赤茶色に染めるのだという。 現在も、渋谷で湧いている井戸水には、全国平均の24倍にあたる鉄分が検出されている。「渋谷」および「渋谷川」の本来の由来は、今の大和市渋谷地区を出自とする渋谷氏一族が、周辺地域に居を構えたことによるようである。広重『名所江戸百景』より「広尾ふる川」。四の橋から現在の白金3丁目付近を望んでいる。
古川橋付近を流れる渋谷川・wikipedia-photo、[広重『名所江戸百景』より「広尾ふる川」。広大な原っぱだった。絵は相模殿橋(四の橋)から現在の白金三丁目付近を望んだところ。橋のたもとに描かれているのは、当時料理自慢として知られた鰻の蒲焼専門店の「狐鰻」]・wikipedia-photo  (wikipedia・渋谷川より)]

四之橋(しのはし)
[南麻布三丁目21番先から白金三丁目1番先に至る(古川に架かる橋)
土屋相模守下屋敷前に架けられたことから「相模殿橋」ともいわれていた。  (「港区公式ホームページ/橋りょう名:四之橋(しのはし)」より)]

[もともと広尾は「樋籠」(ひろう)と記され、広大な原野であったという。「広尾原」とも呼ばれた。文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている。ススキ原の端、渋谷川山下橋には江戸時代大型の水車が設置され、山下橋の風情と合わせて、これも『江戸名所図会』に載っている。
  (wikipedia・広尾_(渋谷区)より)]

「資料館だより」第73号(平成26年3月1日発行)PDFダウンロード1.9MB – 港区名所案内 四之橋・広尾原

国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享(1741-1748年)之頃」(コマ番号4/5・絵図四つ切左上、新堀川に「四ノ橋」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号2/5・土屋采女正下屋敷右上に四の橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図右上方向に土屋采女正(常陸土浦藩)下屋敷が描かれ、その右上に四ノ橋が描かれ、橋下に「相模殿橋ト云」と記述されています。また、土屋采女正下屋敷上に御ヤクエンサカ(御薬園坂)が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」[絵図右下に四ノ橋が描かれ相模殿橋トモ云と記述されています。また、橋左に広重『名所江戸百景』より「広尾ふる川」に描かれている「狐鰻」が記述されています。さらに、絵図右端中央付近に広尾原が描かれ、「広尾ふる川」は四ノ橋から広尾原方面を描いたものと言われています。]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「廣尾原」(7-31)、「土筆の原解説・左ページ左から5行目より」(7-30)、「鷺森神明西光寺氷川明神」(7-34)
廣尾原(拡大図)

鷺森神明西光寺氷川明神(拡大図)

[四の橋(相模殿橋)から白金方向の風景で、図会右ページ下に四の橋(相模殿橋)、中程に鷺森神明(白金氷川神社へ合祀)、上に西光寺、左ページ上に白金氷川神社、その間に三鈷(三光)坂が描かれています。]

狂歌江都名所図会 – 廣尾原(拡大図)

絵本江戸土産 – 麻布古川 相模殿橋 廣尾之原(拡大図)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](廣尾ふる川・wikipedia-photo)

カメラ位置は四の橋交差点で、カメラ南方向が四之橋(しのはし)です。