土佐新田藩麻布山内家上屋敷跡

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土佐新田藩麻布山内家
[土佐新田藩(とさしんでんはん)は、土佐藩の支藩である。江戸時代後期の安永9年(1780年)、中村藩の子孫で山内家一族の山内豊産が1万3000石を本藩より分与され立藩した。藩主は参勤交代を行わない定府大名であった。6代90年間続き、明治3年(1870年)に土佐藩に編入された。高知新田藩ともいう。定府大名であったため、代々江戸麻布古川町の上屋敷に居住したことから、麻布山内家と称された。ちなみ江戸下屋敷は三田寺町にあった。  (wikipedia・土佐藩#土佐新田藩より)]

山内豊福
[筑前国秋月藩主・黒田長元(土佐藩主・山内豊策の五男)の次男として誕生した。
嘉永6年(1853年)、4代藩主・山内豊賢の養嗣子となる。同年12月、13代将軍徳川家定に拝謁する。安政3年(1856年)6月6日、養父の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・遠江守に叙任する。本家の山内豊信を助けて新田藩の軍制を洋式化し、軍備増強に努めた。急進的な佐幕派であったが武力行使には反対で、徳川家の幕府存続には賛成であった。
江戸常駐の豊福は、大政奉還ののち、鳥羽・伏見の戦いで敗走した徳川慶喜江戸城に戻ると大名・旗本の呼び出しにより登城した。慶喜は「山内容堂の勧めで政権を返上したにもかかわらず、逆賊の汚名を着せられ、土佐の策略にはまったようだ」と言い、豊福は本藩・土佐藩への批判の矛先を向けられる。城内では薩長軍と戦う機運となるが、豊福は数日前に容堂から一刻も早く京都に来るように命じられていた。しかしすでに江戸脱出は不可能で、幕府と本藩の板挟みとなった豊福は自害を決意した。慶応4年(1868年)1月13日(1月14日説がある)に継室・典子と共に自害して果てた。享年33。
家臣は2人の死を伏せて、急ぎ本藩の指示を仰いだ。5日後に訃報を聞いた容堂は、豊福の遺言を尊重して従兄弟の山内豊誠を養子として願い出る。許可されたのち、藩主夫妻は病死と公表され、豊誠が土佐新田藩の家督を継いだ。  (wikipedia・山内豊福より)]

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国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図四つ切右上に山内遠江守(山内豊賢)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」[コマ番号3/5・絵図上中央右に二之橋左下に山内遠江守屋敷地と抱屋敷地が描かれています。]

カメラ位置は南麻布一丁目交差点で、カメラ南西方向、三の橋交差点までの一画が抱屋敷を含む、土佐新田藩麻布山内家上屋敷跡になります。