広尾の原(土筆ヶ原)

マーカーは天現寺橋です。

広尾の原(土筆ヶ原)
[広尾五丁目から広尾病院や慶應幼稚舎のある恵比寿二丁目にかけての平坦地一帯は、かつてツクシがたくさん生えていたことから「土筆ヶ原」(つくしがはら)と呼ばれ、江戸時代には江戸名所図会の挿絵にもみられるように庶民の遊歩散策の場所となっていた。
現在、広尾五丁目商店街となっているあたりの町は正徳3年(1713年)に町並地となり町方支配となった。町は1945年(昭和20年)のアメリカ軍による東京大空襲でも被災を免れて明治大正の建物が多く建ち、近年まで昔の面影が残されていた。土筆ヶ原の中心にあたる外苑西通り・天現寺交差点近くに建つ都営広尾五丁目アパートの場所には、かつて都電の車庫が置かれていた。  (wikipedia・広尾_(渋谷区)より)]

[慶應義塾幼稚舎や外苑西通りを挟んで向かいにある東京都立広尾病院の一帯は江戸時代には「広尾の原」と呼ばれており、徳川家光の時代以降にはしばしば鷹狩や鶉狩に利用されていた。  (wikipedia・慶應義塾幼稚舎より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」[絵図左端中央付近・山下橋(水車ト云)の下の橋が天現寺橋で、その左下に広尾原が描かれています。]

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示の絵図右上方向、渋谷川水車橋下に廣尾原が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「廣尾原」(7-31)、「土筆の原解説・左ページ左から5行目より」(7-30)
廣尾原(拡大図)

カメラ位置は天現寺橋南詰めで、カメラ南南東方向が慶應幼稚舎で、カメラ南西方向が広尾病院になります。

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