奥殿藩松平家(大給松平家)下屋敷跡

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松平乗謨(大給恒)
[大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、江戸時代後期の大名。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。
天保10年11月13日(1839年12月18日)、三河国奥殿藩7代藩主・松平乗利の長男として誕生。幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。嘉永5年3月8日(1852年4月26日)、父の隠居により家督を継いだ。6月(7月)には竹橋御門番に任じられた。
嘉永6年(1853年)のペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。11月(12月)に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。万延元年(1860年)には日光祭礼奉行を務めた。文久3年1月(1863年2月)に大番頭に任じられ、8月(9月)に若年寄に任じられた。9月11日(10月23日)、藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口(現在の長野県佐久市田口)に移転し、新たに星形要塞である龍岡城を建設した。
その後は幕政に参与したが、元治元年6月(1864年7月)に開港問題などで松平慶永と対立して若年寄職を罷免された。慶応元年4月(1865年5月)、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。5月(6月)には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。その後、7月(8月)に若年寄次席、12月(1866年1月)には若年寄となり、慶応2年6月(1866年7月)には老中に栄進し、10月(11月)からは朝廷との交渉役を務めている。11月(12月)に正四位下に昇叙し、12月(1867年1月)には陸軍総裁に任じられた。
この間、藩政ではフランス式の軍制を導入した農民兵を基礎とする非常先手組を編成する一方で、殖産興業や蚕種・生糸の増産など国力の増強にも努めている。慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任し、2月(3月)には老中職も辞任した。そして幕府との訣別を表明するため、大給と改姓した上で信濃に帰国し、3月(4月)には上洛して新政府に帰順する意思を表明したが、新政府では乗謨が幕府の中心人物の一人であったことから謹慎を命じた。4月(5月)には新政府の命令に応じる形で北越戦争に出兵し、このため5月に謹慎処分を解かれた。5月28日(7月17日)に藩名を竜岡藩と改名する。のちに維新の戦功として賞典金2000両を下賜された。
明治2年6月(1869年7月)、版籍奉還により竜岡知藩事に任じられる。しかし、竜岡藩の財政破綻のため廃藩を申し出て、廃藩置県前の明治4年6月2日(1871年7月19日)、廃藩となり知藩事を免ぜられる。  (wikipedia・大給恒より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図四つ切右下・内藤因幡守上屋敷右に松平石見守(松平乗利)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/5・絵図中央右に松平石見守(松平乗利)下屋敷が描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央右・麻布笄町の「笄町」下の区画が奥殿藩松平家下屋敷跡になります。)

カメラ南東方向は港区立笄小学校で、北条坂の間までが奥殿藩松平家下屋敷跡になると思います。