マーカーは日本経緯度原点です。
関連リンク – 尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)、尾張徳川家中屋敷跡、尾張徳川家中屋敷跡(東京女子医大)、戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷跡)、戸山山荘跡(箱根山)、尾張徳川家下屋敷(蔵屋敷)跡
尾張徳川家下屋敷
[明治維新後、海軍気象台が置かれた。明治21年、組織改正により東京麻布天文台と称した。大正期に三鷹に移転している。 (「江戸切絵図散策」より)]
日本経緯度原点
[日本経緯度原点(にほんけいいどげんてん、Japan Geodetic Datum)は、日本国内の測量の基準点。東京都港区にある国土交通省狸穴(まみあな)分室の敷地の一角に設置されている。現用施設である一方で、史跡として港区指定文化財にも指定されている。
1874年(明治7年)に海軍水路寮がこの地に観象台を設置した後、1888年(明治21年)に東京天文台(現・国立天文台)に移管され、1892年(明治25年)に参謀本部陸地測量部が天文台の子午環の中心を日本経緯度原点として定めた。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により、子午環が崩壊したため、その跡に金属標を設置し、今日に至っている。現在は、国土地理院関東地方測量部の管轄となっている。
陸地測量部が原点を定める以前は、1869年(明治2年)1月に日本最初の洋式灯台である観音埼灯台の位置を布告する際にはパリを経度の初度としたり、1871年(明治4年)5月に天保山灯台の位置を告示する際にはグリニッジ天文台の位置を経度の初度とする一方で、1882年(明治15年)には溜池葵町(現在の港区虎ノ門)の内務省地理局用地内に設置されていた天象台を起算点としていたところを、旧江戸城本丸天守台を経度零度とする告示が発せられるなど、政府内で測量原点の統一が図られているとは言い難い状況にあった。その後、1886年(明治19年)7月13日にグリニッジ天文台の位置を本初子午線とする勅令「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」が公布されたのを機に、天文台の子午環を測量原点とすることとなった。
1996年(平成8年)10月22日に、港区指定文化財(史跡)に指定された。また、2010年(平成22年)版の理科年表から、創刊以来東京の経緯度の基準として採用されてきた旧東京天文台大子午儀跡が、日本経緯度原点に変更された。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、東日本を中心に大きな地殻変動が発生し、日本経緯度原点そのものも移動した。これを受けて行われた再測量の反映として、同年10月21日に測量法施行令が改正され、原点数値のうち経度が0.0110秒だけ東寄りに改められた。緯度については改正されていない。これは、原点が真東に276.7 mm移動したことを意味する。原点方位角も1.453秒だけ増加した。なお、日本水準原点の標高も24 mm沈下したため、同日に24.4140 mから24.3900 mに改正された。
日本経緯度原点周辺(2018年12月撮影)。説明板の設置は2011年10月21日付。・wikipedia-photo
「日本経緯度原点。中央の金属標が原点の位置。原点の両脇にある黒い石版の位置にはかつて崩壊した子午環の架台が存在していた。」・wikipedia-photo
(wikipdia-日本経緯度原点より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図左上に尾張殿下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」(コマ番号3/5・絵図中央左方向、戸澤千代鶴(新庄藩)の左に尾張殿が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [7]拾七上」(コマ番号35/214・天保十二丑年(1841年)、天保十三寅年之形の右ページ戸澤能登守の下に天徳寺下屋敷地が描かれています。36/214(弘化三午年・1846年)、37/214(當時之形)・天徳寺下屋敷地が分割され尾張殿屋敷地が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(絵図四つ切右上・飯倉六丁目下に海軍観象臺が描かれています。)
カメラ南南西方向・ゲート手前右方向に日本経緯度原点があります。(尾張徳川家下屋敷跡範囲:港区麻布台2丁目2)
日本経緯度原点前のカメラです。
日本経緯度原点(Google Map 画像)
日本経緯度原点(Google Map 画像)
日本経緯度原点案内碑(Google Map 画像)