マーカーはがま池です。
山崎主税助屋敷跡(がま池)
[山崎治正ははじめ5000石の交代寄合であり、天保6年(1835年)、外伯父山崎義柄の養子となり、その家督を継いだ。慶応元年(1865年)2月、農兵隊などを結成し、領内の治安維持をはかった。明治元年(1868年)閏4月、領内の開拓などで所領が1万2000石に増加したと新政府に申し立てた。同年6月20日、明治新政府はこれを認め、成羽藩の立藩を許可する。
山崎治正の屋敷は現在の元麻布二丁目にあり、大きな池があった。ある夜、家臣が池の主の巨大なガマに食べられてしまった。治正はガマ退治を決した。その晩、治正の夢枕に池の主を名乗る白髪の老人が立ち、家臣を食べたことを詫び、許すなら今後山崎家の屋敷を守ると申し出た。治正はそれを受け入れ、ガマを許した。その後、近所で火事が起こり治正の屋敷も類焼しそうになると、池から大ガマが現れ、水を吹きかけて類焼をくいとめた。これを知った江戸市中の人々は、山崎家に火除けのお守りを乞うようになった。明治維新以降は、近所の末広神社でお札の発給を引き継いだ。旧山崎邸のガマ池は、明治以降東京の名所の一つに数えられる名所となったが、昭和8年(1933年)にほとんどが埋め立てられ、現在はマンションの敷地内に一部残っている。 (wikipedia・山崎治正より)]
山崎主税助屋敷跡資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央に山崎主税助屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享(1741年-1748年)之頃」(コマ番号3/7・絵図下中央付近に「山崎兵庫」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [10]拾七中(嘉永元・1848年)」(コマ番号2/5・絵図左に山崎主税助と描かれています。)
「東京図測量原図 : 五千分 – 内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切左下に蝦池が描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東亰市麻布區全圖」(出版年-1896.5)[地図中央下・盛岡町の上、「本」の周辺が山崎主税助屋敷跡と思われます。]
カメラ北東方向・駐車場奥にがま池の一部が現存している。
カメラ西北西方向が駐日アルゼンチン共和国大使館です。