マーカーは山下橋です。
広尾水車
[もともと広尾は「樋籠」(ひろう)と記され、広大な原野であったという。「広尾原」とも呼ばれた。文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている。ススキ原の端、渋谷川山下橋には江戸時代大型の水車が設置され、山下橋の風情と合わせて、これも『江戸名所図会』に載っている。
広重『名所江戸百景』より「広尾ふる川」。広大な原っぱだった。絵は相模殿橋(四の橋)から現在の白金三丁目付近を望んだところ。橋のたもとに描かれているのは、当時料理自慢として知られた鰻の蒲焼専門店の「狐鰻」・wikipedia-photo (wikipedia・広尾_(渋谷区)より)]
[玉川上水からの余水が流れ込むようになった後の享保年間(1716~36年)頃渋谷川では水車の建設が始まり、玉川家も天現寺からやや上流、現在の山下橋付近の自邸内に水車を所持していた。この水車は一般的に「広尾水車」または「玉川水車」と呼ばれ、葛飾北斎の富嶽三十六景に描かれた原宿近辺の「穏田の水車」と共に、江戸名所図会に描かれた「広尾水車」は江戸郊外の有名な水車となった。
「渋谷の歴史」では「広尾水車」について、
~土豪玉川氏が渋谷川をせき止めて水を庭中に導き、水車を用いて多数の杵を動かしたので名高く一般から「広尾の水車」と呼ばれました。 今の山下橋はその頃水車橋といって「江戸名所図会」にも描かれましたが、また玉川氏の後裔玉川次致氏(弁護士)が霊泉院に委託した屏風は 、明治5(1872)年の旧宅を描いたものであるといえます。
嘗(かつ)て将軍が広尾に鷹狩りの際立寄って休息したことがあり、それ以来同家の赤門を御成門と称しました。
同家では八代将軍吉宗と伝えています。~ (「Blog – Deep Azabu – Page2RSS 」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「廣尾水車」(7-32)、「廣尾原」(7-31)、「土筆の原解説・左ページ左から5行目より」(7-30)
広尾水車(拡大図)
廣尾原(拡大図)
狂歌江都名所図会 – 一本松 水車(拡大図)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図」(絵図右端中程に水車ト云と描かれています。)
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示の絵図右上方向、廣尾原上、渋谷川水車橋が描かれています。)
カメラ位置は山下橋で「江戸名所図会」の「廣尾水車」はこの付近を描いたものと思われます。