マーカーは広尾稲荷神社です。
富士見稲荷神社の跡地
広尾稲荷神社
[廣尾稲荷神社(ひろおいなりじんじゃ)は、東京都港区南麻布にある稲荷神社である。祭神は倉稲魂神。
稲荷神社には1596年 – 1615年(慶長)年間、将軍徳川秀忠が鷹狩りの際、この地に休息のため立寄ったと伝えられる。
合祀された富士見稲荷は1698年(元禄11年)3月28日、徳川将軍家の別荘「富士見御殿」の落成とともに勧請された。
1909年(明治42年)2月22日、廣尾稲荷と改称されたが、麻布宮村の千歳寺が別当であったため、千蔵寺稲荷とも呼ばれていた。社殿は木造神明造である。1845年(弘化2年)、拝殿が青山火事と呼ばれる火災により焼失したが、その後、再建され今日に至っている。関東大震災後の1925年(大正14年)、本殿と幣殿が建造された。1940年(昭和15年)、紀元2600年記念事業として、氏子、崇敬者の寄進により、境内整備が行われ、このときに、三基の庚申塔を社殿裏側道路に面した現在地に移転した。
総本社は、伏見稲荷大社(京都府京都市伏見区)である。御神体は木造翁の立像で、商売繁昌、五穀豊穣、火防守護の神として信仰を聚めている。拝殿天井には龍が描かれており、これは日本洋画家の先駆、高橋由一の日本画最後の作で、港区指定文化財となっている。
公道より鳥居を見る・wikipedia-photo
公道より社殿を見る・wikipedia-photo
公道より庚申塔を見る・wikipedia-photo
拝殿・wikipedia-photo
(wikipedia・廣尾稲荷神社より)]
[慶長年間(一五九六-一六一五)徳川秀忠公鷹狩りのみぎり、この地に稲荷を勧請したと伝えられる。古老によれば明治中期まで宝前に葵の紋所のついた大提灯が掲げられてあったという。樹齢五百年といわれる御神木の銀杏は青山大火のさい類焼し、樹幹内部は焼かれたが、外皮のみで今なお葉緑を吹き出して、歴史の証人として立っている。
経緯は不詳だが、戦後富士見稲荷の御神体が本殿に合祀されている。富士見稲荷については、『文政寺社書上』に不思議な石降りの話がある。なお、現在ドイツ連邦大使公邸敷地内に旧跡があり詞が残っている。(東京都神社名鑑より) (「広尾稲荷神社|港区南麻布の神社 – 猫の足あと」より)]
「廣尾稲荷神社(広尾稲荷神社) / 東京都港区 | 御朱印・神社メモ」
広尾稲荷神社資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永元年・1848年)」(絵図中央右方向・酒井内蔵助下屋敷右に広尾稲荷に合祀される前の富士見稲荷が描かれています。これが、「富士見御殿」の落成とともに勧請された稲荷です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享(1741年-1748年)之頃」(コマ番号6/7・絵図中央、小役人上のイナリが富士見稲荷で、その上平野主水左の「稲荷社」が描かれています、ここが現在地の広尾稲荷神社です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号4/5・絵図中央に富士見稲荷社地が描かれています。その左下に稲荷社が描かれています、ここが現在地の広尾稲荷神社です。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [9]拾七中」(コマ番号103/189・延宝年中(1673年-1681年)之形に白銀御殿地となる屋敷地は本多越前守と記述され、その地の下が三枝摂津守となり、その右方向の稲荷社が現在の広尾稲荷神社になります。コマ番号104/189・元禄十一寅年(1698年)頃之形の絵図上に白銀御殿地が描かれているが、まだ富士見稲荷は描かれていなく、平野右衛門右上の稲荷が現在地の広尾稲荷神社です。コマ番号105/189・寛永五子年(1628年)頃之形の絵図上に稲荷社地が描かれ、白銀御殿地は御殿地跡となっています、稲荷社地は富士見稲荷神社で、右方向に広尾稲荷神社となる稲荷が描かれています。)
「廣尾稲荷神社 – Google Map 画像リンク」、「広尾の庚申塔 – Google Map 画像リンク」
カメラ南東方向が広尾稲荷神社鳥居です。
広尾稲荷神社拝殿前のカメラです。
カメラ北方向が広尾の庚申塔です。
[港区指定有形文化財(歴史資料)
広尾の庚申塔
昭和55年(1980)11月15日指定
庚申信仰は、庚申の日の夜に体内に住む三尸虫が、眠っている間に体内を抜け出して、天帝にその人の罪科を報告して生命を縮めるといわれているため、眠らずに一晩を明かすもので、講の形をとって地域住民の交際の場となっていました。庚申塔は庚申信仰を具象的に表現する塔として、室町時代後期以後各地で盛んに建てられました。
三基とも方形角柱の笠塔婆型で、塔身が太く、堂々としています。社伝によれば、広尾稲荷神社の別当寺であった千蔵寺の住持祐道の代に、講の人々の浄財を得て立てられたものです。三基のうち、中央には元禄3年(1690)、左には元禄9年(1696)の年号があり、右は摩滅のため年代不詳ですが、状況から左の二基よりも古い可能性があります。庚申信仰が全国的に盛行している時代の産物であり、この地域も例外ではなかったことがわかります。
庚申信仰の実態は、この地域ではすでにほとんど失われ、過去の組織の状況を伝えるものも全くありませんが、さまざまな要素を合成しながら、自主的な民間信仰として、庶民の間に行われてきまたものであり、都心化したこの地域での、かつての信仰のあり方を想起させる遺物として、三基の庚申塔は貴重な存在となっています。
昭和55年(1980)11月15日指定 (平成22年〔2010〕3月建替) 港区教育委員会 (「東京都港区の歴史 広尾の庚申塔(広尾稲荷神社)」より)]