広尾稲荷神社

マーカーは広尾稲荷神社です。

広尾稲荷神社
[「麻布區史」による広尾稲荷神社の由緒
廣尾稲荷神社(無格社)廣尾町三九
祭神倉稲魂神、大祭九月十六日。舊麻布御花畠富士見御殿の鎮守であつた。
御殿は元三枝攝津守屋敷であり、稲荷は其頃からあつたものと云ふ。即ち元禄十一年三月二十八日白銀御殿(麻布御殿)落成と共に勧請された。
一に富士見稲荷と呼び、又宮村千蔵寺の持であるところから千蔵寺稲荷とも云つた。
明治四十二年二月二十二日現社號の稱呼を許可された。社殿は神明造、氏子は廣尾町・新廣尾町及び渋谷区元廣尾に亘り、總數一千三百戸を持つてゐる。(「麻布區史」より)  (「広尾稲荷神社|港区南麻布の神社 – 猫の足あと」より)]

[元禄のころ、将軍別荘の麻布富士見御殿鎮守として勧請されたと伝えられています。古くは富士見稲荷または千歳寺稲荷と呼ばれていました。拝殿の7枚つなぎの天井板に描かれた竜は、日本画の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作とされています。また、石掘沿いに3基の庚申供養塔(区有形文化財)がまつられており、正面には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3猿が刻まれています。  (「広尾稲荷神社 – 港区観光協会」より)]

広尾稲荷神社資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図」(絵図中央右方向・酒井内蔵助下屋敷右に富士見稲荷と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享之頃」(コマ番号6/7・絵図中央上「南部大膳太夫」左下方向に「稲荷社」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [10]拾七中」(コマ番号4/5・絵図中央に富士見稲荷社地が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [9]拾七中」(コマ番号103/189・延宝年中(1673年-1681年)之形に白銀御殿地となる屋敷地は本多越前守と記述され、その地の下が三枝摂津守となっています。104/189・元禄十一寅年(1698年)頃之形の絵図上に白銀御殿地が描かれているが富士見稲荷は描かれていない。105/189・寛永五子年(1628年)頃之形の絵図上に稲荷社地が描かれ、白銀御殿地は御殿地跡となっています。)

廣尾稲荷神社 – Google Map 画像リンク」、「広尾の庚申塔 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が広尾稲荷神社鳥居です。

広尾稲荷神社拝殿前のカメラです。

カメラ北方向が広尾の庚申塔です。

[港区指定有形文化財(歴史資料)
 広尾の庚申塔
         昭和55年(1980)11月15日指定
 庚申信仰は、庚申の日の夜に体内に住む三尸虫が、眠っている間に体内を抜け出して、天帝にその人の罪科を報告して生命を縮めるといわれているため、眠らずに一晩を明かすもので、の形をとって地域住民の交際の場となっていました。庚申塔は庚申信仰を具象的に表現する塔として、室町時代後期以後各地で盛んに建てられました。 
 三基とも方形角柱の笠塔婆型で、塔身が太く、堂々としています。社伝によれば、広尾稲荷神社の別当寺であった千蔵寺の住持祐道の代に、講の人々の浄財を得て立てられたものです。三基のうち、中央には元禄3年(1690)、左には元禄9年(1696)の年号があり、右は摩滅のため年代不詳ですが、状況から左の二基よりも古い可能性があります。庚申信仰が全国的に盛行している時代の産物であり、この地域も例外ではなかったことがわかります。
 庚申信仰の実態は、この地域ではすでにほとんど失われ、過去の組織の状況を伝えるものも全くありませんが、さまざまな要素を合成しながら、自主的な民間信仰として、庶民の間に行われてきまたものであり、都心化したこの地域での、かつての信仰のあり方を想起させる遺物として、三基の庚申塔は貴重な存在となっています。
 昭和55年(1980)11月15日指定 (平成22年〔2010〕3月建替) 港区教育委員会  (「東京都港区の歴史 広尾の庚申塔(広尾稲荷神社)」より)]
 

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