マーカーは浜田藩松平家下屋敷跡です。
関連リンク – 浜田藩松平家上屋敷跡、浜田藩松平家下屋敷跡(聖心女子学院)
浜田藩松平家下屋敷跡
[永坂町の植木坂、鼠坂の間の土地は江戸時代浜田藩松平家下屋敷があった土地で、〔江戸切絵図〕. 麻布絵図に描かれる松平十郎磨は松平武聰で幼名は十郎麿です。常陸国水戸藩主・徳川斉昭の十男(庶子)として誕生し、第15代将軍・徳川慶喜の実弟にあたります。ちなみに、慶喜は七男で幼名を七郎麻呂と言います。武聰は、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐のとき浜田口を担当し、長州藩側の大村益次郎が指揮する軍にことごとく撃破され、浜田の街に長州軍が入ったときには、武聰は戦わずして浜田城を放棄して松江城に逃れ、その後、武聰は美作国の飛び地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。この際に、浜田の街は焼き払われ、浜田城も同時に灰燼に帰した。その後、浜田は長州藩が占領し続けた。武聰はこの時期病に侵され、その後も回復しなかったらしく幕末を迎えることになります。
明治になりこの屋敷地は元佐土原藩主島津家の手に渡り、島津忠亮は明治21年(1888年)、香蘭女学校(現香蘭女学校中等科・高等科)開校にあたり屋敷の一部を貸与しています。
香蘭女学校は、1912年(大正元年)9月19日、芝区白金三光町360番地(山地元治将軍邸跡)に移転し、さらに、1941年(昭和16年)3月、現校地である荏原区平塚7丁目1046番地(現:旗の台。実業家伊藤幸次郎邸宅跡)に移転しました。
昭和に入り、ブリヂストンタイヤ(現・ブリヂストン)の創業者である石橋正二郎が住居し、その後住宅はブリヂストン美術館創設に伴いブリヂストン美術館 永坂分室となりましたが、2019年7月にブリヂストン美術館館名がアーティゾン美術館へ変更され、2020年1月に新美術館開館に伴い、永坂分室は閉鎖されています。]
麻布永坂町
[住居表示に関する法律が成立した1962年(昭和37年)以降、港区においても新たな街画が設定されてそれまでの歴史ある町名が次々と消滅、1978年(昭和53年)には町名変更の実施率が97.4%に達していた。この際に最後まで残ったのが麻布永坂町と麻布狸穴町であり、これら二町の名称は現在まで存続することとなった。
これは、麻布狸穴町の住民であった世界経済調査会理事長・木内信胤が、「歴史的にも古く、価値のある町名はきちんと後世まで残すべき」と、住居表示の施行を強行する行政に対して異を唱え、脚本家・松山善三が中心となって、住民による反対運動が行われた結果である。麻布永坂町では、ここに居を構えるブリヂストン創業者・石橋正二郎をはじめ、蕎麦屋・永坂更級の主人らも住居表示の実施に対して強固に異を唱えた。 (wikipedia・麻布永坂町より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図四つ切左上・松平十郎磨下屋敷が描かれ、上の道が鼠坂で、左の道が植木坂になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上( 嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/5・絵図四つ切左上に松平十郎磨下屋敷が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右上・島津邸が浜田藩松平家下屋敷跡になります。)
「国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中心から右上方向・永坂町が描かれ、文字「永坂」周辺が浜田藩松平家下屋敷跡で、敷地の上方向に香蘭小学校、女学校と記述されています。)
カメラ位置は植木坂の上で、カメラ南東方向が元ブリヂストン美術館 永坂分室です。(浜田藩松平家下屋敷跡範囲:港区麻布永坂町)