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深広寺
[崇源院(す(そ)うげんいん、天正元年(1573年) – 寛永3年9月15日(1626年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。一般には江(ごう)、小督 (おごう)、江与(えよ)として知られる。位階は従一位。浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘・市(織田信長の妹)。いわゆる浅井三姉妹の一人で、長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。猶女に鷹司孝子がいる。最初の婚姻相手は佐治一成だが、秀吉によって離縁させられる。2度目の婚姻相手は秀吉の甥・豊臣秀勝で、娘の完子が生まれる。3度目は後に江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠へ文禄4年(1595年)に再々嫁し、秀忠の正室(継室)となる。寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」。この時、秀忠・家光・忠長は上洛中であった。1月28日、従一位を追贈される。死後は長男・家光によって増上寺(東京都港区)に埋葬された。
戦後、鈴木尚が中心となって行なわれた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された。その調査報告は『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』にまとめられているが、それによると崇源院は火葬にされており、父・浅井長政、母・お市の方、長姉・淀殿らがおそらくは長身であったと推察されるのと異なり、江は生前は小柄で華奢な女性であったようである。ちなみに、増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった。 (wikipedia・崇源院より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図」[絵図左下方向、大御番組の上に深光寺(深広寺)が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享之頃」[コマ番号3/7・絵図上左方向「阿部志摩守」上に「深光寺(深広寺)」が描かれています。]
カメラ南西方向小路が深広寺参道です。