狭山藩北条家下屋敷跡(北条坂)

マーカーは北条坂の坂下です。

関連リンク- 狭山藩北条家上屋敷跡

北条氏恭
[北条 氏恭(ほうじょう うじゆき)は、弘化2年(1845年)8月、下野佐野藩主・堀田正衡の七男として生まれる。万延元年(1860年)9月、狭山藩の第11代藩主・北条氏燕の養子となる。文久元年(1861年)10月21日、養父の隠居により家督を継ぐ。同年12月、従五位下・相模守に叙任する。元治元年(1864年)5月、従五位上に昇進する。
幕末の動乱の中では、京都近郊に所領を持っていた関係上から幕命に従い、和泉高石海岸に砲台を設置して海防を強化し、文久3年(1863年)の天誅組討伐、元治元年(1864年)の大坂城警備、慶応2年(1866年)の畿内における天領での百姓一揆鎮圧などに参加している。しかし、慶応3年(1867年)に大政奉還が行なわれると新政府に恭順し、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与した。このような連年の活動による軍事費は小藩の狭山藩の藩財政を大きく苦しめた。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により狭山知藩事に任じられる。しかし、同年12月27日、財政難を背景に知藩事を辞任、狭山藩は廃藩となり、堺県に編入された。  (wikipedia・北条氏恭より)]

[坂下近く南側に大名狭山藩北条家の下屋敷があったために、この名がついた。  (「港区公式ホームページ/北条坂」より)]

[港区西麻布三丁目と南麻布五丁目の境を西北に下る坂。北条坂の末の方は鉄砲坂と呼ぶ。昔、坂の南側に北条相模守の屋敷があった。  (横関英一著 – 「江戸の坂 – 東京の坂(全)」より)]

東京都立図書館 – 麻布広尾辺絵図(嘉永2[1849]改)」(絵図四つ切左上・南部甲斐守中屋敷右上方向、松平石見守下屋敷下に中坂が描かれています。松平石見守下屋敷左に北条相模守下屋敷が描かれ、その右の道が坂(△)で記されています。そこが北条坂になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図四つ切右下・御先手組上に北条相模守(北条氏久)下屋敷左が北条坂です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/5・絵図中央右端に北條相模守(北条氏久)下屋敷が描かれ、その左の道に坂印が描かれています。そこが北条坂です。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区桜田町広尾町及南豊嶋郡下渋谷村近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右下・麻布笄町右に笄川に下る北条坂が描かれています。字「麻布笄町」周辺が狭山藩北条家下屋敷跡になります。)

東京市拾五区区分全図 第七 麻布区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左下・広尾町3,4番が狭山藩北条家下屋敷跡と思われます。)

北条坂 – Google Map 画像リンク

北条坂上・カメラ北西方向が北条坂で、カメラ方向右に標識があり、坂左が狭山藩北条家下屋敷跡になります。(狭山藩北条家下屋敷跡範囲:港区南麻布5丁目2,3)

北条坂下・カメラ北西方向右に北条坂の標柱があり、道路左側が狭山藩北条家下屋敷跡になり、カメラ方向道路先は鉄砲坂になります。