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白銀御殿
[五代将軍綱吉の時代、幕府の薬草園があったこの地に将軍の御殿が建設されました。竣工は1697年(元禄10)とされています。御殿建設工事の際に、古川の改修工事が行われました。その後、御殿はわずか5年後に火事のため焼失してしまいました。 (「古川今昔 – 港区」より)]
[五代将軍綱吉が世を治めていた元禄十年(1697年)12月1日、将軍の慰安施設として麻布で白銀御殿が竣工され、翌年11年4月14日に完成しました。わずか五ヶ月半の突貫工事で完成したこの御殿は、普請奉行を酒井彦太夫が勤めますが、実質的には豊後岡城主の中川因幡守久通が普請を任され、白銀御殿・麻布御殿・富士見御殿とも呼ばれ、四の橋近辺の広大な敷地を有しました。 (「Blog – Deep Azabu: 麻布御殿(白金御殿)」より)]
白銀御殿資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号4/5・絵図中央上方向の松平主水の右道路に白銀御殿跡と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [9]拾七中(嘉永元年・1848年調)」(コマ番号104/189・元禄十一寅年(1698年)之形の絵図上方向に白銀御殿地が描かれています。コマ番号105/189・寶永五子年(1708年)頃之形の絵図上方向に御殿地跡が描かれています、そこに描かれる富士見稲荷神社は第二次世界大戦後、広尾稲荷神社に合祀され、そこに祀られています。コマ番号161/189・元禄十一寅年(1698年)、同十二卯頃之形の右ページ(光林寺右)に白銀御殿地が描かれています。コマ番号162/189・寶永五子年(1708年)頃之形の右ページ(光林寺右)に白銀御殿地跡割残地が描かれています。コマ番号163/189・正徳二辰年、同三巳年之形で戸澤上総介、本多飛騨守等に分割され割残地が描かれています。コマ番号183/189・元禄十一(1698年)年之形で後に天現寺となる麻布村畑下に白銀御殿地が描かれています。)