マーカーは福江藩五島家上屋敷跡です。
関連リンク – 福江藩五島家下(抱)屋敷跡(港区立郷土歴史館・旧公衆衛生院)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP745・コマ番号416/553から福江藩屋敷の変遷について記載されています。P746・コマ番号417/553「上屋敷 麻布六本木」がこの地になります。
福江藩五島家
[福江藩は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島家が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し、1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。
略史
文治3年(1187年)、平家盛(平忠盛次男、平清盛の異母弟)が宇久島に上陸し、宇久姓を名乗る。観応2年(1351年)、宇久覚が宇久より福江島岐宿に移り、天正15年(1587年)、宇久純玄(すみはる)が五島姓へと改める。藩の成立は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に、初代藩主・五島玄雅(五島純玄の嗣子)が徳川家康に謁し、1万5千余石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。
第2代藩主・盛利は、玄雅の養子として慶長17年(1612年)にその跡を継いだ。元和5年(1619年)、玄雅の実子・五島角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め、主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「大浜主水事件」である。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いた。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは寛永11年(1634年)に完了している。寛永12年(1635年)には領内の検地を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、慶長19年(1614年)に焼失した江川城に代わって、寛永14年(1637年)、石田陣屋を建設して藩庁の整備を行なった。承応元年(1652年)、漁場として最盛期を迎えて居住者の増えていた男女群島に「女島奉行」を新たに設置した。
第4代藩主・盛勝は幼少で藩主となり、寛文元年(1661年)、その後見役で叔父の盛清に富江領3000石が分知された。この地は捕鯨が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の南松浦郡新上五島町)と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で、流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により元禄2年(1689年)、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。
捕鯨で潤っていた藩財政も、江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・盛佳は領内の労働人口を把握して確保するため、享保6年(1721年)より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。
第7代藩主・盛道は宝暦11年(1761年)、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあったが、相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、ほとんどの領民は奉公に出された。「人付け改め」とともにこの制度は幕末まで続いた。
嘉永2年(1849年)、幕府より築城の許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、第10代藩主・五島盛成が着工した。文久3年(1863年)、第11代五島藩主・盛徳によって、日本で最も新しい城として石田城が竣工した。
明治4年(1871年)、廃藩置県により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治2年(1869年)に旧藩主・五島家は華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となった。盛徳の跡を継いだ盛主には男子がなかったが、旧新発田藩主家の溝口直溥の十六男盛光を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった盛輝は昭和20年(1945年)8月9日に長崎市で原子爆弾に被爆したことが原因で9月2日に卒去した。 (wikipedia・福江藩より)]
[東洋英和女学校は順調に発展し、それにともない学舎施設の不足が明らかとなってゆく。昭和4(1929)年、在日本カナダ・メジスト宣教師社団は東鳥居坂町2番地の土地を鍋島桂次郎から購入。学校は新たなキャンパスの建築計画を立てていく。
外苑東通りに面する東鳥居坂町2-1の土地は、明治末年は鍋島桂次郎の所有であるが、同年の地籍図には三井財閥の幹部であった福井菊三郎の名も記されている。
新校舎の完成に先だつ昭和7(1932)年、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による幼稚園、伝道館、西洋教師館ならびに寄宿舎「青楓寮」が竣工した。
東鳥居坂2番地の施設等は、昭和15(1940)年に東洋英和に譲渡され、戦時中の没収を免れた。戦後、在日本カナダ合同教会宣教師社団に返還されたが、昭和49(1974)年に同社団より土地を購入、その後、六本木5-16-5(旧東鳥居坂2番地)の敷地は、昭和55(1980)年に売却された。 (「麻布を語る会 「麻布未来写真館」分科会 平成22年度 … – 港区」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央左端に五嶋左衛門尉上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」(コマ番号5/5・絵図四つ切左下に五嶋左衛門尉と描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第七 麻布区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右上・東鳥居坂町2番地が福江藩五島家上屋敷跡になります。)
カメラ位置は六本木五丁目交差点で、カメラ南南東方向に福江藩五島家上屋敷があったと思います。(福江藩五島家上屋敷跡範囲:港区六本木5丁目16)