芋洗坂

マーカーは芋洗坂上です。

芋洗坂
[芋洗坂(いもあらいざか)は、東京都港区六本木にある坂である。東京都港区六本木五、六丁目の朝日神社前の坂であり、この一帯はかつて北日ヶ窪町という地名であった。
芋洗坂は現在、六本木通り外苑東通りが交差する「六本木交差点」にある喫茶店『アマンド』の左脇に始まって、六本木駅前郵便局、朝日神社(朝日稲荷)を経て、六本木ブルーマンシアター周辺まで下る坂を指す。一方、西側の麻布税務署、麻布警察署裏(かつての材木町)に始まって現在の芋洗坂へ合流する坂は「饂飩坂(うどんざか)」と呼ばれる。古い資料には、こちらの坂こそが「芋洗い坂」であり、合流先のほうが「饂飩坂」であると記載しているものも複数存在するが、通常の認識のように六本木交差点から直接下る本坂が芋洗坂、合流してくる坂を饂飩坂と解釈するのが妥当であるとされる。饂飩坂について 『新撰東京名所図会』は、「饂飩坂は芋洗坂の中程より西へ正信寺の方へ行く坂をいふ。饂飩を鬻ぐ(ひさぐ)商店など在りしに因り名づくるか」と記している。
「芋洗坂」の名の由来については諸説ある。
1917年(大正6年)に出版された『新編江戸志』には、「芋洗坂。日ヶ窪より六本木へ上る坂。坂下稲荷社あり、麻布氷川の持也。毎年秋、近在より芋を馬にてはこび来り、稲荷宮の辺にて日毎に市あり、ゆへに名付けるかと江戸砂子に見ゆ」との記載があり、坂下の朝日稲荷の前で芋が売られていたためにこの名が付いたと紹介されている。
一方、古来「芋(いも)」と言えばあばた疱瘡痘瘡)のことも表し、「いもあらい」とは疱瘡(天然痘)に罹患した際に神仏に祈願し、お水で洗うことであった。すなわち、各所にみられる「芋洗坂」とは疱瘡神の傍の坂道であり、当地においても寛文年間や寛延年間の地図で坂沿いに見られる法典寺の弁財天が「いもあらい」の祈念が行われ、それが名称の起源であるとの解釈もされる。坂に現存する朝日稲荷は「いもあらい稲荷」ではなく、すなわち疱瘡神とは考えられていない。
名称に関連してはほかに、付近に家主の源六という者が営む芋問屋があった、坂下に芋問屋があったために芋洗坂となったなどの記載もある。
芋洗坂、麻布十番方面に降る・wikipedia-photo

  (wikipedia・芋洗坂より)]

[六本木5丁目、6丁目の間
正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが、六本木交差点への道が明治以降にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。  (「港区公式ホームページ/芋洗坂 」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図」[絵図左中下・内藤能登守(延岡藩)、六本木町の右方向に芋洗坂と記述されています。)

「国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉より麻布白金御殿跡辺絵図 : 寛保延享之頃」(コマ番号3/7・絵図中央「毛利甲斐守」右道路が北日ヶ窪町(芋洗坂)です。)

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「無題(焼き芋)」(4-20)
無題(焼き芋)(拡大図)

[そろって浄土に弥次喜多道中膝栗毛 – 芋洗坂」で「『東都歳事記を読む』川田 壽著 東京堂出版」によると、この絵の場所は芋洗坂と記述されている。絵の右ページに「八里半 〇芋」と描かれ、焼き芋を売っている。「江戸時代、ある焼きいも屋が「栗(九里)に近い味」ということで、8里半となずけた。]

芋洗坂 – Google Map 画像リンク

芋洗坂上・カメラ南南東方向に芋洗坂の標識があります。

芋洗坂下・カメラ北方向が芋洗坂です。

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