土浦藩土屋家下屋敷跡(御薬園坂・駐日イランイスラム共和国大使館)

マーカーは薬園坂の坂上です。

関連リンク – 土浦藩土屋家上屋敷跡土浦藩土屋家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP642・コマ番号365/553から土浦藩屋敷の変遷について記載されています。P646・コマ番号367/553「下屋敷並抱屋敷 麻布御薬園跡」がこの地になります。

土屋寅直
[土屋 寅直(つちや ともなお)は、文政3年(1820年)2月24日、常陸土浦藩第9代藩主土屋彦直の長男として生まれる。天保8年(1837年)8月に従五位下・采女正に叙位・任官する。天保9年(1838年)12月7日、父が眼病を理由に隠居したため、家督を継いだ。
天保14年(1843年)に奏者番に任じられる。嘉永元年(1848年)7月23日に寺社奉行見習、10月18日に寺社奉行に任じられる。嘉永3年(1850年)9月1日に大坂城代に任じられた。安政5年(1858年)11月26日、大坂城代を退任する。元治元年(1864年)9月10日、奏者番兼寺社奉行に再び就任する。慶応4年(1868年)3月1日、奏者番兼寺社奉行を退任する。
水戸藩徳川斉昭の従弟に当たることから、安政5年(1858年)の大坂・兵庫開港に反対してい派と討幕派の間で苦慮した行動が目立った。藩政では藩財政再建のために倹約令を出し、家臣の知行借上や特産物の専売化を行なっている。また、人材登用や郡制改革、学問の奨励など、斉昭に倣った藩政改革を行なっている。る。また、水戸藩で天狗党の乱が起こったときにも、その鎮圧には消極的な立場に終始するなど、佐幕
慶応4年(1868年)3月1日、
新政府の命令で謹慎する。後に新政府に恭順して江戸城警備を務めた。5月6日、養子の挙直(徳川斉昭の十七男)に家督を譲って隠居した。  (wikipedia・土屋寅直より)]

[南麻布3丁目10番、3丁目13番の間
江戸時代前期、坂上の西部に江戸幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって役人坂・役員坂と呼ぶ。  (「薬園坂(やくえんざか)|港区観光協会 」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [9]拾七中」[コマ番号134/189・延宝年中(1673年-1681年)之形の絵図上に御薬園と記述されています。コマ番号135/189・天和三(1683)年之形以降は土屋相模守(土屋政直)となっています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」[コマ番号2/5・絵図右上に土屋采女正(土屋寅直)下屋敷が描かれています。その上の道が御薬園坂になります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図右上・土屋采女正下屋敷上に「御ヤクエンサカ」と記述されています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「七佛薬師氷川明神」(7-26)、「氷川明神社解説-1・左ページ左側」(7-23)、「氷川明神社解説-2・1行目まで、2行目から七佛薬師(東福寺・明治初年に廃寺)」(7-25)
七佛薬師氷川明神(拡大図)

[絵図右ページ上に麻布氷川神社、絵図下に薬園坂、その右に七佛薬師(東福寺)が描かれています。]

薬園坂 – Google Map 画像リンク

薬園坂上・カメラ南方向が御薬園坂で、坂右に薬園坂の標識があります。

カメラ位置は薬園坂・南麻布3丁目11-23 地先でこの付近から薬園坂西側、新坂の間が土浦藩土屋家下屋敷跡になると思います。範囲に駐日イランイスラム共和国大使館があります。(土浦藩土屋家下屋敷跡範囲:港区南麻布3丁目11~20)

駐日イランイスラム共和国大使館前のカメラです。

薬園坂下・カメラ北北東方向が薬園坂で、カメラ方向左に標識があり、その向こうがイラン大使館です。薬園坂の西側が土浦藩土屋家下屋敷跡になります。