赤羽接遇所跡(飯倉公園)

マーカーは飯倉公園です。

赤羽接遇所
[赤羽接遇所は、安政6年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同安政6年(1859)8月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された。黒の表門をもち、高い黒板塀で囲まれており、内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行各十間のものとの2棟の木造平屋家屋から成っていた。幕末にわが国を訪れたプロシアの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。 昭和48年(1973)3月 東京都港区教育委員会  (「東京都港区の歴史-赤羽接遇所跡(区立飯倉公園)」より)]

赤羽接遇所資料リンク
東京都立図書館アーカイブ – 東都麻布之絵図(嘉永4[1851]/文久元[1861]改正)」[絵図左上に外国人旅宿と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [7]拾七上(嘉永年間調・1848年-1855年)」(コマ番号19/214~37/214・左ページ青木美濃守下屋敷が幕末に講武所付属調練所に、その後赤羽接遇所となります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 芝金杉ヨリ麻布白金御殿跡辺絵図(天保十三年・1842年)」(コマ番号2/5・絵図中央付近、「増上寺」左に「青木駿河守」と描かれています。)

カメラ西方向が飯倉公園で、カメラ方向に赤羽接遇所跡案内板が設置されています。