足守藩木下家下屋敷跡

マーカーは足守藩木下家下屋敷跡です。

関連リンク – 足守藩木下家上屋敷跡(駐日スイス王国大使館)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP316・コマ番号452/553から足守藩屋敷の変遷について記載されています。「下屋敷 同所(麻布広尾 麻布区広尾町)」がこの地になります。

木下利恭
[木下 利恭(きのした としやす)は、官位は従五位下・石見守、備中守。備中国足守藩11代藩主・木下利愛の次男として誕生。幼名は三之丞。
弘化4年(1847年)10月1日、12代将軍・徳川家慶に拝謁した。同年11月23日、父・利愛の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下・備中守に叙任した。
慶応4年(1868年)1月26日、上洛し、明治新政府支持の姿勢を示した。戊辰戦争では、旧幕府軍に与して箱館まで転戦した板倉勝静の藩である備中松山藩の追討に参加した。同年8月4日、明治新政府に対し、陸奥国信夫郡内の領地1万1400石余を備中賀陽郡内に改めてもらうことを願う。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により知藩事となった。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免官となる。  (wikipedia・木下利恭より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央・増上寺隠居右に木下備中守(木下利恭)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号3/5・絵図中央右端に木下主計頭中屋敷が描かれ、その左土方備中守(伊勢菰野藩土方雄嘉)下屋敷が、この後木下備中守下屋敷となります。)

カメラ位置は一本松坂で、カメラ北西方向、道路を含む道路両サイドが足守藩木下家下屋敷跡になると思います。(足守藩木下家下屋敷跡範囲:港区元麻布2丁目11)