マーカーは阿衡坂上です。
阿衡坂
[文政五年、金丸彦五郎図工、須原屋茂兵衛蔵版「『分間江戸大絵図』」の、麻布白金御殿跡の辺りに、「アカウサカ」という坂の名が見える。これは、奴坂という坂につづいて西の方へ上る坂である。遍正寺と称念寺のあいだの道すじである。今日でいえば、南麻布三丁目五番六番の境を西に上る坂ということになる。この坂みちの北側には「亀井大隅守(津和野藩)」の下屋敷があり、南側には小屋敷が一廓になって、たくさん並んでいる。この辺は、昔の白金御殿の一部であって、かっての保科肥後守(保科正之)の下屋敷があったところである。
元禄六年の江戸大絵図には、この坂の南側に、「ホシナヒコ」とあり、この坂を挟んでその北側には、「カメイノト(亀井能登守)」の下屋敷がある。保科肥後の西隣の屋敷は、「本多越前(本多利長)」である。この保科肥後と亀井能登の間の坂が、「アカウサカ」なのである。「アカウサカ」とは阿衡坂と書いたものと思われる。阿衡(あこう)とは、天子の輔佐たる摂政または宰相の異称である。ここではもちろん、徳川将軍の輔佐役という意味であろう。そして、ここの保科肥後守が、その阿衡なのである。 (「横関英一著「江戸の坂 東京の坂(全)」より)]
保科正貞
[保科 正貞(ほしな まささだ)は、上総飯野藩の初代藩主。
天正16年(1588年)5月21日、保科正直の三男として生まれる。異母兄の正光には実子が無かったため、伯父徳川家康の命で文禄3年(1594年)に養子となり、保科家の後継者とされた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では本多忠朝に属して出陣し、体に槍や鉄砲傷を4箇所も負う重傷を負ったが、武功を挙げた。
しかし元和3年(1617年)、徳川秀忠の実子(落胤)である保科正之が正光の養子となったため、廃嫡された。元和8年(1622年)には保科家中から逐電、諸国を放浪した後、母方の叔父である伊勢桑名藩主・松平定勝(久松俊勝の三男)のもとに身を寄せた。寛永6年(1629年)に幕臣となり、上総国周淮郡・下総国香取郡の内に3000石を与えられ旗本となった。さらに同10年、上総国望陀郡・安房国長狭郡・近江国伊香郡の内に4000石を加増された。
その後、大坂城や二条城の在番を務め順調に功績を重ねた。慶安元年(1648年)6月26日、大坂定番となり、摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。この順調な昇進には、伯父が徳川家康であること、保科正之が正式に秀忠の子と認められたことにより、将来的には松平姓を名乗る可能性が出てきたため(正之自身は辞退したが、子孫は会津松平家となる)に正之に代わって正貞に保科氏正統を継承させるため、第3代将軍・徳川家光(正之の異母兄)の配慮があったのではないか、などとする説がある。のちに正之は正貞に対し、自身が所有していた保科家代々伝来の文物の返還(譲渡)を行っている。
寛文元年(1661年)11月1日に江戸で死去した。享年74。当初は外孫で小出吉英の子である保科正英を養子としていたが、のちに廃嫡し、正貞の跡は実子の正景が継いだ。正英は分家して旗本となる。 (wikipedia・保科正貞より)]
保科正英(1611年 – 1678年)
[保科 正英(ほしな まさふさ)は、江戸時代前期の上総国飯野藩の世嗣。旗本寄合席。通称は百助、主水。旗本保科氏初代当主。
但馬国出石藩主・小出吉英の三男として誕生。
母方の叔父である保科正貞の養子となり、寛永16年12月26日(1640年)に徳川家光へ初御目見する。しかしながらその後廃嫡され、飯野藩嫡子の座は、正貞の長男・正景が就いた。正景が飯野藩主となると、安房国長狭郡2000石を分知されて旗本寄合席となる。
のちに長男・小出英勝は父・吉英の養子となって小出姓を名乗る。
延宝3年(1675年)に家督と知行は次男・正静に譲って隠居する。
なお武鑑では使番や先手弓頭時代の正静の父を「保科主水」ではなく「小出修理」と掲載しているが、正英の兄が小出吉重(修理亮)ではあるものの、理由は不明である。 (wikipedia・保科正英より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図」(絵図3/5中央付近に「アカウサカ」が描かれています。下画は元図を反転し拡大コピーしています。「土屋相模下屋敷」左方向、「龜井能登下屋敷」の右上に「アカウサカ」と記述されています。)
「江戸図 – 早稲田大学」 – 「請求記号:ル11_01193 23カット」(18、19カット・本多越前の下に「ホシナヒコ」とあります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [10]拾七中(嘉永元年・1848年)」(コマ番号2/5・絵図中央右に小出伊織 抱屋敷が描かれ、その左の道が阿衡坂になります。松平主水、抱屋敷、亀井主税介の部分が亀井能登下屋敷になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央右上に小出伊織が描かれています。その左の道が阿衡坂になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [9]拾七中」[コマ番号134/189・延宝年中(1673年 – 1681年)之形の御薬園(後に土屋相模下屋敷)下の麻布村(後に小出伊織抱屋敷)の場所が保科肥後守下屋敷ではないかと思います。コマ番号139/189・正徳三(1713)年之形で麻布村地に小出主水抱屋敷と記述されています。]
阿衡坂上・カメラ東方向が阿衡坂です。
阿衡坂下・カメラ西北西方向が阿衡坂で、カメラ東方向は奴坂になります。