飯野藩保科家上屋敷跡

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関連リンク – 飯野藩保科家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP392・コマ番号240/553から飯野藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 芝新堀向」がこの地になります。

飯野藩保科家
[飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた。
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。
慶安元年(1648年)6月26日、7000石を知行していた旗本の保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡河辺郡能勢郡豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が2代将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。しかし正之が秀忠の子として認められると正貞が改めて保科家の家督を相続することになったのである。正貞は寛文元年(1661年)11月1日に死去し、跡を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子だった保科正英に2000石を分与している。延宝5年(1677年)7月7日、正景は大坂定番になったことから丹波国天田郡内に5000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866年)5月26日に若年寄にまで栄進し、第二次長州征伐では征長軍の指揮を務めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益も連座して謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑して罪を許されている。  (wikipedia・飯野藩より)]

[保科正貞は天正16年(1588年)5月21日、保科正直の三男として生まれる。異母兄の正光には実子が無かったため、伯父徳川家康の命で文禄3年(1594年)に養子となり、保科家の後継者とされた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では本多忠朝に属して出陣し、体に槍や鉄砲傷を4箇所も負う重傷を負ったが、武功を挙げた。
しかし元和3年(1617年)、徳川秀忠の実子(落胤)である保科正之が正光の養子となったため、廃嫡された。元和8年(1622年)には保科家中から逐電、諸国を放浪した後、母方の叔父である伊勢桑名藩主・松平定勝久松俊勝の三男)のもとに身を寄せた。寛永6年(1629年)に幕臣となり、上総国周淮郡下総国香取郡の内に3000石を与えられ旗本となった。さらに同10年、上総国望陀郡安房国長狭郡近江国伊香郡の内に4000石を加増された。
その後、大坂城二条城在番を務め順調に功績を重ねた。慶安元年(1648年)6月26日、大坂定番となり、摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7000石の大名として飯野藩を立藩した。この順調な昇進には、伯父が徳川家康であること、保科正之が正式に秀忠の子と認められたことにより、将来的には松平姓を名乗る可能性が出てきたため(正之自身は辞退したが、子孫は会津松平家となる)に正之に代わって正貞に保科氏正統を継承させるため、第3代将軍・徳川家光(正之の異母兄)の配慮があったのではないか、などとする説がある。のちに正之は正貞に対し、自身が所有していた保科家代々伝来の文物の返還(譲渡)を行っている。
寛文元年(1661年)11月1日に江戸で死去した。享年74。当初は外孫で小出吉英の子である保科正英を養子としていたが、のちに廃嫡し、正貞の跡は実子の正景が継いだ。正英は分家して旗本となる。  (wikipedia・保科正貞より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図上中央に保科弾正忠(保科正益)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」[コマ番号3/5・絵図四つ切右上・二之橋左下に保科能登守(保科正丕)と描かれています。]

カメラ位置は二之橋交差点で、カメラ北西方向仙台坂までが飯野藩保科家上屋敷跡と思われます。(飯野藩保科家上屋敷跡範囲:港区麻布十番2丁目17,21,港区麻布十番3丁目1~6,10~14)