マーカーは飯野藩保科家下屋敷跡です。
関連リンク – 飯野藩保科家上屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP392・コマ番号240/553から飯野藩屋敷の変遷について記載されています。P394・コマ番号241/553「下屋敷 抱屋敷及抱地 広尾下渋谷 豊多摩郡下渋谷広尾町」がこの地になります。
保科正益
[保科 正益(ほしな まさあり)は、天保4年(1833年)2月2日、上総飯野藩第9代藩主・保科正丕の三男として江戸で生まれる。はじめ病弱なために正丕は幕府に出生届を出さなかったが、長男と次男が相次いで早世したため、天保7年(1836年)に出生届を出している。このため、弘化4年(1847年)に世子となり、嘉永元年(1848年)に正丕が死去したため家督を継いだ。嘉永3年(1850年)12月、従五位下、弾正忠に叙任される。大坂加番や日光祭礼奉行など諸役を歴任し、嘉永6年(1853年)のペリー来航では浦賀の警備を務めた。
文久3年(1863年)、大坂定番に任じられる。慶応2年(1866年)5月には若年寄に任じられ、同年からの第2次長州征伐では石州口における幕府軍を指揮した。慶応3年(1867年)1月、江戸へ戻り、7月に若年寄を辞任する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府に恭順するためと、前将軍・徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩主・松平容保が徹底抗戦の構えを取ったため、4月から連座によって京都北野で謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、6月19日に罪を許された。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還で飯野知藩事に任じられる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職された。 (wikipedia・保科正益より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四・1852年)」(絵図四つ切右下隅に保科弾正忠(保科正益)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は渋谷区立広尾公園南東角交差点で、カメラ北方向 渋谷区立広尾ひだまり保育室まで道路を含む両サイド一帯が飯野藩保科家下屋敷跡になると思います。(飯野藩保科家下屋敷跡範囲:渋谷区広尾5丁目7~9)