マーカーは高取藩植村家下屋敷跡です。
関連リンク – 高取藩植村家・小諸藩牧野家上屋敷跡(芝給水所・駐日オランダ王国大使館)、高取藩植村家中屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP559・コマ番号323/553から高取藩屋敷が記載されています。P562・コマ番号325/553「下屋敷 麻布古川町 麻布区新堀町」がこの地になります。
高取藩植村家
[寛永17年(1640年)10月19日、大番頭であった9000石の大身旗本である植村家政が、2万5000石に加増されて大名となり、再び高取藩が立藩された。第2代藩主・家貞は万治元年(1658年)7月7日、弟の政春に3000石を分与したため、石高は2万2000石となる。さらに第3代藩主・家言も貞享4年(1687年)8月25日に弟の政明に1000石、正澄に500石を分与したため、2万500石となった。
藩政においては第5代藩主・植村家包の時代である元文3年(1738年)から大和国における幕府領の預かりを任されている。これには外様大名であった大和宇陀松山藩の織田信武騒動などが原因であった。
第8代藩主・植村家利が遊女と入水心中事件を起こし、露見すれば改易となるところ、江戸屋敷の留守居役が情報を抑えて病死として届けたため、藩は改易を免れて無事存続した。第9代藩主・植村家長の時代には預かり地が6万6000石近くにまでなり、所領と合わせて約10万石となった。家長は奏者番や寺社奉行、若年寄、執政格などを歴任するなど幕政に参与した。この功績から4500石を加増され、高取藩は再び2万5000石となる。第10代藩主・植村家教は谷三山を招聘して尊王攘夷に傾倒し、これは幕末の高取藩に影響を与えた。
家教の後、植村家貴の代で植村家の男系は絶え、幕末の3人の藩主はいずれも他家から養子として迎えられた。その一人である第13代藩主・植村家保は大坂近海の防衛や天誅組の変鎮圧などで功績を挙げ、京都守備などでも活躍した。しかし谷三山の影響から尊王派であった植村家は、戊辰戦争においては官軍側に与して京都御所の警備につく。その後、大和芝村藩主・織田長易と共に大和における旧幕領の取締りを行なった。最後の藩主・植村家壺は明治2年(1869年)6月の版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を辞任したことにより、高取藩は廃藩となる。その後、高取は高取県を経て、奈良県に編入された。
なお、植村家は酒井家や本多家などと共に戦国時代から徳川家に仕えた古参で、家康の下で抜群の戦功を挙げたことから、歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代であった。また、高取城は江戸時代を通じても珍しい山城であったため、交通に不便で寛永末期から藩主・家臣団の移転が始まり、城には城番が置かれるだけであった。 (wikipedia・高取藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 麻布絵図(嘉永四年・1851年)」[絵図四つ切右上に植村駿河守(植村家貴)下屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [8]拾七上(嘉永元年・1848年)」[コマ番号4/5・絵図四つ切右上・三之橋右下に植村駿河守(植村家貴)下屋敷が描かれています。]
高取藩植村家上屋敷は芝愛宕下切通(小諸藩牧野家上屋敷)にありましたが、その後常盤橋御門内の鯖江藩間部下総守上屋敷跡へ屋敷替えとなります。
「東京都立図書館アーカイブ – 大名小路神田橋内内桜田之図(嘉永2[1849]/安政7[1860]改正刊)」(絵図四つ切右下・常盤橋御門左上方向に植村出羽守(植村家保)上屋敷が描かれています。)
カメラ位置は三の橋交差点で、カメラ西南西方向が高取藩植村家下屋敷跡になると思います。(高取藩植村家下屋敷跡範囲:港区南麻布2丁目8,10,11)