下谷広小路

マーカーはカメラ位置です。

下谷広小路(上野広小路)
[上野山は、戦国時代には忍岡(しのぶのおか)と呼ばれており、元々江戸においては人口の少ない地域であった。1603年に江戸幕府が開かれた頃、忍岡には、伊賀国上野を本拠地とする外様大名藤堂高虎の屋敷が置かれた。後に徳川将軍家菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近の一帯を「上野」と呼ぶようになる。これは、藤堂家の所領である上野に地形が似ていたためと言われている。寛永寺には歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護されたので繁栄し、それに伴って門前町の上野も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、京都延暦寺(京都から見た場合は北東)に擬えた江戸鎮護の寺でもあった。明暦の大火後には上野に広小路が設置された。ただし、当時の上野広小路は現在の上野駅付近にあり、現在の広小路は江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。  (wikipedia・上野より)]

[下谷という地名は上野や湯島といった高台、又は上野台地が忍ヶ岡と称されていたことから、その谷間の下であることが由来で江戸時代以前から下谷村という地名であった。本来の下谷は下谷広小路(現在の上野広小路)あたりで、現在の下谷は旧・坂本村に含まれる地域が大半である。  (wikipedia・下谷より)]

カメラ北方向が上野広小路で、道路右に上野松坂屋があります。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図

名所江戸百景」・下谷広小路(手前の商家「いとう松坂屋」は、現在の松坂屋)「ファイル:100_views_edo_013.jpg
[絵の解説は「森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1) 古写真で読み解く広重の江戸名所」がお勧めです。]

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