久留里藩黒田家上屋敷跡

マーカーは久留里藩黒田家上屋敷跡です。

関連リンク – 久留里藩黒田家下屋敷跡久留里藩黒田家下屋敷跡(椿山荘)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP701・コマ番号394/553から小島藩屋敷の変遷について記載されています。P703・コマ番号395/553「上屋敷 下谷御成道」がこの地になります。

久留里藩黒田家
[久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。
寛保2年(1742年)7月28日、上野国沼田藩から黒田直純が3万石で入り、再び久留里藩を立藩した。直純の黒田家は、筑前国福岡藩の黒田家とは別の一族であり、徳川綱吉の家臣で元は館林藩家老黒田用綱の一族である。
直純は、土屋家改易のときに廃城となっていた久留里城の再建や新規の家臣召し抱え、城下町整備など藩政の基盤固めに尽力し、大坂加番奏者番などを歴任した。しかし第3代藩主直英の頃から藩財政の困窮化が深刻となり、このために倹約や俸禄制度改革、三割の法制定などによる藩政改革が行なわれたが、効果はなかった。第7代藩主直静のとき、藩校三近塾が創設された。しかし、幕末期は相次ぐ異国船の出没に備えての海防や、歴代藩主の多くが大坂加番に任じられたため、そのための出費が著しく、財政は悪化の一途をたどった。
戊辰戦争のとき、最後の藩主直養は新政府軍に帰順した。翌年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で久留里藩は廃藩となった。  (wikipedia・久留里藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都下谷絵図(嘉永4[1851]/文久2[1862]改正)」[絵図四つ切左上に黒田伊勢守(黒田直和)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」[絵図中央下に黒田豊前守(黒田直静)が描かれています。]

カメラ位置は蔵前橋通り・末広町地域安全センター前で、カメラ南方向道路両サイドが久留里藩黒田家上屋敷跡になります。