凌雲院跡(国立西洋美術館)

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上野駅東西自由通路建設地点の遺跡(うえのえきとうざいじゆうつうろけんせつちてんのいせき)
[東京都上野公園内は上野忍岡遺跡郡として縄文時代近世の遺跡が広がり、江戸時代には寛永寺境内地であった。本遺跡は上野台地の東南に縁辺に位置し、北東に東京文化会館構内・国立西洋美術館構内の遺跡が分布している。当地は近世には寛永11年(1634)から寛永寺子院の上照院が存在していたが、1678年に凌雲院が移転してきた。凌雲院の境内は当地から東京文化会館と国立西洋美術館まで続き、18世紀中頃以降は徳川三卿(田安一橋清水家)の墓所となっていた。国立西洋美術館構内の発掘調査では清水家の墓が発見され、東京文化会館においても墓が発見されている。  (「上野公園・上野駅東西自由通路建設地点の遺跡」より)]

凌雲院跡の変遷抜粋

[大正15年(1926)年関東大震災直後に上野公園内の凌雲院(りょううんいん)境内に小学校の仮校舎が建てられたことについて
以下の資料より、こちらで判明した記録は小学校6校、高校1校計7校。各小学校の記録を集めたものであるため、これで全てかどうかは不明。
『台東区教育史資料 第6巻』
P.201上段、207下段:大正15年9月~昭和5年7月?【黒門小学校】
P.108上段:昭和2年9月~昭和3年8月【練塀尋常小学校(後の二長町小学校)】
P.136上段:昭和5年8月~昭和7年【忍岡小学校】
P.176下段:昭和7年12月~昭和8年3月?【金曽木小学校】
P.170下段:昭和9年5月~昭和11年2月【谷中小学校】火事で校舎が延焼したため。
P.118上段:昭和11年4月~昭和13年7月【根岸小学校】
※凌雲院からの移転時期は、明記していないものは新校舎の完成時期とした。  (「大正15年(1926)年関東大震災直後に上野公園内の凌雲院(りょう …」より)]

[昭和15年4月 1日 第四東京市立高等女学校として東京市下谷上野公園凌雲院境内に設置の件公布。
昭和17年4月1日 凌雲院境内仮校舎狭隘のため仮校舎(もと自治会館)に移転
昭和18年7月1日 東京都制実施により東京都立竹台高等女学校と校名を改称
昭和25年1月12日 東京都立竹台高等学校と校名を改称    (「東京都立竹台高等学校ホームページ」より)]

[慶応4年(1868)5月の戊辰の役で寛永寺の諸堂宇は大半が焼失し、各子院は縮少や移転を余儀なくされました。
明治35年(1902)、上野桜木町48番地に移った林光院は更に大正4年(1915)、同町9番地に移転、後に輪王寺門跡になられた当時の長沢徳玄住職建立の新院宇は惜しくも昭和20年(1945)3月の東京大空襲により全焼しました。第2次大戦後は寛永寺住職の住居寺である上野公園の凌雲院にしばらく仮寓しましたが、昭和25年(1950)8月、現在地に先代住職が木造で再建の後、平成元年(1989)11月、鉄筋コンクリート総2階建ての現本堂や庫裡などが完成、今日に至っております。  (「東叡山寛永寺 林光院 | 天台宗東京教区 公式サイト」より)]

[『蟻の街の奇蹟』を読んでいると,蟻の街松居桃楼さんたちと上野公園内葵町(または葵会)の連帯の話も出てくる。葵町というのは,上野公園の国立科学博物館の隣,寛永寺凌雲院墓地に住んでいた集団のことである。また,この凌雲院は,今の,国立西洋美術館から東部公園緑地事務所,東京文化会館までかかるぐらいの広さだった。なお,凌雲院の建物の一部は我孫子市龍泉寺に移されている。  (「蟻の街の奇蹟&葵会@凌雲院跡地 – 風のまにまに(by ironsand …」より)]

[我孫子市龍泉寺の本堂は安政2(1855)年に火災により焼失しました。転機が訪れたのは戦後になってから。国立西洋美術館の建設予定地に徳川将軍のお墓がある上野寛永寺の末寺、凌雲院がありました。凌雲院と龍泉寺は宗派が別でしたが、龍泉寺は谷中(上野周辺)にあるお寺とご縁があり、そのお寺の紹介で寛永寺から取り壊される予定だった凌雲院の本堂を、昭和29(1954)年に譲り受けたのでした。  (「あ び こ – 我孫子市」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図中央右方向・本覚院と御霊屋の間に凌雲院が描かれています。)

日文研所蔵地図 – (内題)東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治17(1884)」(絵図中央左上・桜木町左に凌雲院が描かれています。)

国立西洋美術館

Google アートプロジェクト」 – 「国立西洋美術館」(ヘッダー画像右下のペグマンをクリックするとストリートビューが表示されます。)

[国立西洋美術館は印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年(昭和34年)に設立された。実業家松方幸次郎は20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集したが、コレクションは第2次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられていた。松方コレクションが日本に返還される際の条件として、国立西洋美術館が建設されることになった。
本館の設計はル・コルビュジエによるが、彼の弟子である前川國男坂倉準三吉阪隆正が実施設計・監理に協力し上野公園内、寛永寺の子院の凌雲院跡地に完成した。なお新館は前川國男(前川國男建築設計事務所)が設計した。
本館は、1998年(平成10年)に旧建設省による公共建築百選に選定。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定され、2007年(平成19年)には「国立西洋美術館本館」として国の重要文化財に指定された。また、前庭・園地は、2009年(平成21年)に「国立西洋美術館園地」として国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。
現在は松方コレクションに加えてルネサンス期より20世紀初頭までの西洋絵画・彫刻作品の購入を進め、常設展示している。なかでも西洋のオールド・マスター(18世紀以前の画家)たちの作品を見ることができる美術館として、日本有数の存在である。「西美(せいび)」の略称で呼ばれることもある。
国立西洋美術館・wikipedia-photo、本館 手前はロダン考える人』・wikipedia-photo、ロダン 『カレーの市民』・wikipedia-photo、ロダン『地獄の門』・wikipedia-photo、「トップライトが設けられた『19世紀ホール』。吹き抜けをスロープを巡って上る構成になっている。」・wikipedia-photoモネ睡蓮』1916年・wikipedia-photo  (wikipedia・国立西洋美術館より)]

国立西洋美術館ホームページ」 – 「館内案内図

国立西洋美術館 – 日本の世界遺産

国立西洋美術館 – Google Map 画像リンク」、「弓をひくヘラクレス – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が国立西洋美術館です。

ロダン作「地獄の門」前のカメラです。

国立西洋美術館前庭・ロダン作「カレーの市民」前のカメラです。カレーの市民の左奥にロダン作「考える人」があります。

国立西洋美術館玄関ホールのストリートビューです。

1階 – カメラ初期設定方向中央、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ愛の杯』1867年(commons.wikimedia)、左・ヴィクトリア・デュブール『花』(wikipedia-photo)、右・ウジェーヌ・カリエールクレマンソーの肖像(Portrait of Clemenceau)

1階 – カミーユ・ピサロ、左『立ち話(Conversation)』(commons.wikimedia・1881年)、右『収穫(The Harvest)』(commons.wikimedia・1882年)

1階 – ポール・ゴーギャン『海辺に立つブルターニュの少女たち』(commons.wikimedia・1889年)

2階 – ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち』(commons.wikimedia・1872年)

2階 – ギュスターヴ・クールベ眠れる裸婦』(commons.wikimedia・1858年)

2階 – ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『ナポリの浜の想い出』(wikipedia-photo・1870 – 72年)

2階 – クロード・モネ『舟遊び』(commons.wikimedia・1887年)

2階 – クロード・モネ『睡蓮』(commons.wikimedia・1916年)

ピーテル・ブリューゲル (子)『鳥罠のある冬の風景』(commons.wikimedia

ヤン・ブリューゲル (父)『農民の結婚式』(commons.wikimedia・1650年頃)

ジョン・エヴァレット・ミレー『あひるの子』(commons.wikimedia・1889年)

フィンセント・ファン・ゴッホ『ばら』(1889年4月)(commons.wikimedia)

(拡大画像)
[ゴッホがアルルからサン=レミ=ド=プロヴァンスに移る直前に描いたといわれる。サン=レミ時代に顕著になる「うねるようなタッチ」が表れ始めている作品といわれる。  (wikipedia・ばら_(絵画ゴッホ)より)]
[1889年1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、弟テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。
そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめ。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル市立病院より)]

ヨハネス・フェルメール(に帰属)『聖プラクセディス』1665年頃(寄託作品)(wikipedia-photo)

[フェルメールの真作であるかどうかについては意見が分かれる。真作とすればもっとも初期の作。聖プラクセディスは2世紀頃の人物で、処刑されたキリスト教信者の遺体を清めることに努めたという。彼女は殉教者(絵の背景に見える)の血を含ませたスポンジを絞っている。本作品は、フェリーチェ・フィチェレッリ(1605年 – 1669年?)というイタリアの画家が10年ほど前に描いた『聖プラクセディス』の写しと思われ、構図はフィケレッリの作品とほとんど同じであるが、聖プラクセディスがその手にスポンジとともにフィケレッリの原作にはない十字架を握っている点が異なっている。
本作品は、1969年にメトロポリタン美術館で開催された「アメリカのコレクションにあるフィレンツェ・バロック美術」という展覧会に上記フィケレッリの作品として出品されたものであったが、画面左下に「Meer 1655」と読める署名が発見され、画面右下にもこれとは別の署名が発見されるに至り、フェルメール作品とみなす研究者が現れた。フェルメール研究の権威の1人であるアーサー・ウィーロックが1988年、自分の著書に収録して以降、本作品がフェルメールの作品として紹介されることが多くなったが、疑問をもつ研究者もいる。  (wikipedia・フェルメールの作品より)]

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