マーカーは勧学屋跡とされるホテルパークサイドです。
※錦袋円の御子孫の方から指摘を受け訂正いたしました。
勧学屋
[寛文5年(1665年)、36歳となった了翁道覚(りょうおうどうかく)は黄檗山萬福寺を下り、寺塔の建立と蔵経の奉納の誓願を立て、そのための募金の旅に出、畿内を発して奥羽地方から関東に及び、多くの人々から喜捨をうけた。江戸では旗本の松平孝石邸に滞泊していたが、そのとき指灯の旧痕が再び痛み出した。一心に観世音菩薩を念じて平癒を祈ったある日、了翁は霊夢をみたという。それは、長崎興福寺を開いた明の高僧黙子如定(もくす にょじょう)が夢枕に現れ、霊薬の製法を与えるという夢だった。そのとおり薬を調整して患部に塗ると間もなく指痛は鎮まった。その後、羅切の痛みが再発したときも、如定の霊薬により平癒した。また、飲用すると心身爽快になったといわれる。この妙薬を人々に施せば功徳があると考えた了翁は、浅草の観世音菩薩に祈念し、籤を3度ひいて「錦袋円(きんたいえん)」と名づけた。薬の効能は素晴らしいもので、傷病に苦しむ多くの人を救ったとされる。錦袋円は、江戸上野の不忍池のほとり(今の池之端仲町)に構えられた店舗でも売られた。甥の大助に経営を任せたところ、これが評判を呼んで飛ぶように売れ、江戸土産にまでなり、寛文10年(1670年)には金3,000両を蓄えるまでに至った。「勧学里坊(勧学屋)」と名付けられた薬舗の看板は、水戸光圀の直筆の文字を左甚五郎が彫ったものともいわれており、『江戸名所図会』にも「池之端錦袋円店舗の景」が描かれている。 (wikipedia・了翁道覚より)]
資料リンク
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「錦袋圓」(14-22)
錦袋圓(拡大図)
[池の端(はた)仲町勧学屋(かんがくや)大助(たいすけ)是を製(せい)す。其の始祖(しそ)勧学坊(かんがくぼう)了翁(りょうおう)僧都(そうず)、一代蔵経(いちだいぞうきょう 仏教の経典の総称)建立(こんりゅう)の志願(しがん)によりて、正保三年(1648) 摂(摂津の国)の勝尾寺(かちおでら)および、和州(大和の国)長谷寺(はせでら)、洛陽(京都のこと)清水寺(せいすいじ)等の大悲の尊前(そんぜん)に参籠(さんろう)して、指灯(しとう)を燃やし、一篇(いっぺん)の願書をこめ奉る。その翌(あくる)年、 彼(かの)一指(いっし)大(おほい)に腫(はれ)て、苦痛堪えがたし。時に夢中(むちゅう)、肥前州(ひぜんのくに)興福禅刹(こうふくぜんさつ)の開山如定(にょじょう)禅師、錦袋(きんたい)のうちより一霊薬を取出して授けらるると見(みゆ)る夢覚めて後、速(すみやか)に彼(かの)薬を製して服せしかば、その指の病、頓(とみ)に愈(いへ)ぬ。其後、衆人の患者(うれふるもの)に用(もちひ)るに、 百人必ず百癒せずと云ふことなし。ここに於いて、この地に店を開き、万病錦袋円(まんびょうきんたいえん)と号(なづ)け、彼(かの)霊薬を製し鬻(ひさ)ぎて竟(つひ)に其価(そのあたえ) の余計(よけい)をもって一切経建立の料(りょう)に充(あて)、志願(しがん)の全(まった)きことを得たりといへり。 (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之五 第十四冊」より)]
『江戸買物独案内』画像データベース(早稲田大学)の江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部(下巻 / 内容画像9・下画右ページ)に勧学屋大助が掲載されている。
カメラ北北東方向が勧学屋があったとされる、ホテルパークサイドです。(ホテルパークサイドは令和2年に閉館しています。ネットには錦袋円は池之端仲町二十二番地にあったとされる記述もみられる?)