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旧寛永寺関連へリンク
寛永寺(常憲院霊廟勅額門)、寛永寺(厳有院霊廟勅額門)、寛永寺・旧伽藍跡(本坊・根本中堂)、東京国立博物館、寒松院、本覚院、東叡山坂本口、輪王寺(両大師堂)、寛永寺敷地跡(上野動物園)、寒松院跡(藤堂家の墓所)、旧寛永寺五重塔、東京都美術館(寛永寺敷地跡)、凌雲院跡(国立西洋美術館)、東照宮、上野大仏(大仏山パゴダ)、旧上野寛永寺・時の鐘、寛永寺子院11ヶ寺跡(上野駅)、天海大僧正毛髪塔(旧本覚院跡)、寛永寺(清水観音堂)、不忍天神、彰義隊の墓、寛永寺・黒門跡
寛永寺
[寛永寺(かんえいじ)は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山(とうえいざん)。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基(創立者)は徳川家光、開山(初代住職)は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失した。
本堂(根本中堂)- 東京芸術大学音楽学部の裏手にある。上野公園内の清水堂、弁天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(堂内は非公開)。
書院-本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前に2か月ほど蟄居(ちっきょ)していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている。(非公開)
境内にある標柱と山門・wikipedia-photo
寛永寺・本堂(根本中堂)・wikipedia-photo
寛永寺の鐘楼・wikipedia-photo
(wikipedia・寛永寺より)]
了翁禅師座像(寛永寺境内・画像リンク)
[秋田県雄勝郡八幡村で寛永7年(1630)に生まれた了翁道覚(りょうおうどうかく)は14歳の時に一切経を納める経堂を建てようと初願しました。諸国を修行しているうちに、肥前国の興福寺の僧侶から万病に効く霊薬の製法を授かりました。寛文の初め、上野池之端仲町に店を開き、「錦袋円」の名前で売り出したところ、大当たりして、3千両の利益を得て、このお金で早速不忍池中ノ島に念願の経堂を建てました。その後、寛永寺境内に土地をもらい、池にあった経堂を移し、あわせて勧学寮も造りました。寮は俗に百軒長屋といわれ、千人の僧侶の学問所と寮舎となった。文庫、講堂もあり、和漢の書籍教典など三万余巻を収め、僧侶達の図書館ともなった。わが国図書館の元祖ともいわれるゆえんであります。 (都指定旧跡) (「桜 | 花雷 日記」より)]
東叡山寛永寺、上野桜木の境内にある了翁禅師堂。wikipedia-photo
「上野で除夜の鐘を打ちませんか。 – 上野中央通り商店会 – 」、「上野のお山の除夜の鐘|momosannのブログ – アメーバブログ」
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図中央右の御本坊の右上方向「唯識院」付近が「大慈院」になると思います。)
[江戸城内并芝上野山内其他御成絵図][11/36コマに寛永寺・伽藍が描かれています。]
[上図、行堂手前左下方向に上野東照宮が描かれ、行堂上に堂中、表門、御本坊が描かれています。御本坊左上方向、大慈院が現在の寛永寺・本堂になります。]
「寛永寺根本中堂 – Google Map 画像リンク」、「銅鐘 – Google Map 画像リンク」、「寛永寺 – Google Map 画像リンク」、「茶筅塚 – Google Map 画像リンク」、「了翁禅師塔碑 – Google Map 画像リンク」、「上野戦争記碑 – Google Map 画像リンク」、「慈海僧正墓 – Google Map 画像リンク」、「旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦 – Google Map 画像リンク」
カメラ東北東方向が寛永寺山門です。
カメラ東北東方向が寛永寺寺務所正門です。
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カメラ東方向が鐘楼です。
カメラ北東方向が本堂(根本中堂)です。