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旧寛永寺関連へリンク
寛永寺・本堂(根本中堂)、寛永寺(常憲院霊廟勅額門)、寛永寺(厳有院霊廟勅額門)、寛永寺・旧伽藍跡(本坊・根本中堂)、東京国立博物館、寒松院、本覚院、東叡山坂本口、輪王寺(両大師堂)、、寛永寺敷地跡(上野動物園)、寒松院跡(藤堂家の墓所)、旧寛永寺五重塔、東京都美術館(寛永寺敷地跡)、凌雲院跡(国立西洋美術館)、東照宮、上野大仏(大仏山パゴダ)、旧上野寛永寺・時の鐘、寛永寺子院11ヶ寺跡(上野駅)、天海大僧正毛髪塔(旧本覚院跡)、寛永寺(清水観音堂)、不忍天神、彰義隊の墓
寛永寺・黒門
[黒門 – かつての総門。現在の上野公園入口から噴水広場へ至る広い道の途中、清水観音堂の下あたりにあったもので、簡素な冠木門であった。幕末の上野戦争には焼け残ったが、明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築され、同所に現存する。彰義隊戦士の遺骸が円通寺に葬られた縁で移築されたもので、門には上野戦争の時の弾痕が多数残る。 (wikipedia・寛永寺 – 旧伽藍より)]
上野戦争
[新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。作戦会議では、西郷隆盛は大村の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、大村は「そうです」とにべもなく答えたという。
5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤山砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒門口からの攻撃が防備を破ると彰義隊は寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防備を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。
上野戦争の図・wikipedia-photo、上野戦争で使用されたとされる佐賀藩のアームストロング砲・wikipedia-photo、上野戦跡・wikipedia-photo、円通寺に残る黒門・wikipedia-photo (wikipedia・上野戦争より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図四つ切右上・不忍池下方向に黒門と御成門が描かれています。そのほか東叡山寛永寺の門として、塔頭群下、車坂、屏風坂、信濃坂の先に、廣徳寺(現・台東区役所、元下谷小学校(1990年廃校)および上野警察署)前通り右に車坂門、高岩寺(現岩倉高校)前に屏風坂門、養玉院前に坂下門が描かれています。また絵図右上、護国院前に清水門、林光院前に谷中門が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東叡山内外分間絵図帳面書付類共. [2]」(コマ番号5/5・絵図右下三橋上方向に黒門と御成門が描かれています。コマ番号4/5・車坂、屏風坂、の先に車坂門、屏風坂門、が描かれています。コマ番号3/5・護国院上に清水門、林光院左に谷中門が描かれ、絵図左上方向に屏風坂門、中央左方向善養寺左上に新門が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [33]貮拾壹元」(コマ番号5/7・松平伊豆守下屋敷下に清水門、妙雲寺下に谷中門が描かれています。)
下絵図は「日文研所蔵地図 – (内題)東京府武蔵国下谷区上野公園地及車坂町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)明治17(1884)」の写し図で、文字「桜木町」の「町」左下に車坂が、慈眼堂前に屏風坂、右上に信濃坂が描かれています。
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「東叡山黒門前忍川三橋」(14-23)
東叡山黒門前忍川三橋(拡大図)
絵本江戸土産 – 上野黒門及び三橋の図(拡大図)
「黒門(上野恩賜公園) – Google Map 画像リンク」
カメラ北北西方向が黒門を模した噴水です。
カメラ西北西方向に昭和13年に建てられた、桜と黒門を詠み込む蜀山人の歌一首が刻まれた碑があります。
カメラ東方向に黒門の由来碑があります。