彰義隊の墓

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彰義隊の墓
[彰義隊の墓
    平成2年(1990年)登録
 江戸幕府15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近家来であった小川興郷(おきさと)達は、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居(ちっきょ)した慶喜の助命を求め、慶応4年(1868年)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。彰義隊には徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への不満武士、変革期に世に出ようとする人々で構成されていた。
 慶応4年(1868年)5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。
 正面の小墓石は、明治2年(1869年)寛永寺子院の寒松院護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。生き残った小川興郷(椙太)ら元彰義隊士は、明治7年(1874年)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり彰義隊隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。大墓石は、明治14年(1881年)12月に小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。
 なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されている。以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は東京都に移されている。
 平成2年(1990年)に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。
  平成8年(1996年) 台東区教育委員会  (「東京都台東区の歴史 彰義隊の墓(上野恩賜公園)」より)]

[上野戦争戦闘後、上野には200名を超える彰義隊士の遺骸が残った。徳川家の菩提寺であった芝増上寺や縁故者等が引き取りを申し出たが、官はこれを容れなかったという。南千住(現:荒川区)の円通寺の二十三世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎がこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、官許を得て遺骨を円通寺に埋葬した(上野公園内「彰義隊墓表之来由」)。円通寺には近親者などが墓碑を相次ぎ建立、上野では1869年(明治2年)、寛永寺子院の寒末松院と護国院の住職が密かに「彰義隊戦死之墓」と刻んだ墓碑を地中に埋めたが、表立って彰義隊を供養することは憚られる状況が続いた。
1874年(明治7年)に元彰義隊士の小川興郷などの願が許可され、翌1875年(明治8年)に上野で彰義隊の墓が建立された。以降、小川家が墓守を務め、上野では大規模な法会が毎年営まれている。1881年(明治14年)には旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」を碑銘とする墓碑が新たに加わった。彰義隊を「賊軍」とみなす人々からの風当たりによる資金難、墓地の所有権を巡るトラブルなどはあったものの、戊辰戦争における立場を超えて彰義隊士を慰霊しようという環境は次第に好転し、現在に至っている。なお、上野戦争に参加した官軍側諸隊である山国隊の記録では終戦の3日後から彰義隊の遺体処理を開始したとあり、また円通寺は大村益次郎からの指示で遺体の受け入れを行ったとの説があるなど、戦死者の処理については記録により差異がある。
彰義隊士の法要は長年、小川の志に協力した日蓮宗が担ってきた。2017年5月15日の百五十回忌は、増上寺や寛永寺など都内5寺が宗派を超えて営んだ。
上野公園内にある彰義隊の墓・wikipedia-photo  (wikipedia・彰義隊より)]

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カメラ北北東方向が彰義隊の墓です。

彰義隊の墓(Google Map 画像)

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