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東叡山坂本口
[JR上野駅の東側、浅草出口から「入谷口通り」とよばれる道が北に延びている。根岸と下谷の境を通り、入谷口通りは根岸3丁目交差点で「金杉通り」にバトンタッチして三ノ輪に至る。そこから現在の4号線をたどって南千住で浅草から来た表の日光街道・奥州街道に合流するまでの道を奥州裏街道といった。奥州裏街道は昭和通りができるまでは北千住と上野を結ぶ幹線道路だったのである。根岸と下谷の地域には昔、坂本、金杉という町があった。坂本は比叡山の麓の町、坂本をまねたものである。 (「東京散歩」より)]
[善養寺は、天長年間(824-833)に開基である慈覚大師が上野山内に創立したと伝えられる天台宗の寺院で、正式には薬王山延寿院善養寺という。東叡山寛永寺の末寺で、本尊は薬師如来像である。江戸時代の寛文年間(1661-72)に下谷坂本(後の下谷区善養寺町、元台東区上野公園)に移転した後、境内地が鉄道用地の拡張にかかるといいうことで、明治45年に北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字庚申塚347番地(現在地・豊島区西巣鴨4-8-25)へ移転し、現在に至っている。 (東京都豊島区教育委員会抜粋) (「猫のあしあと」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」(絵図左上・上野御山内右に描かれる門が東叡山坂本口になります。その右上の善性寺は善養寺になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [33]貮拾壹元」(コマ番号7/5・東叡山左下に新門が描かれています。その右下に善養寺が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「東叡山坂本口」(17-5)
東叡山坂本口(拡大図)
[絵左中ほどに新門が、その右上に善養寺が描かれています。]
カメラ南南西方向に東叡山坂本口があったようです。