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「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図右上方向、「飯倉町」「三田町」から「上大崎」「下大崎」、「中延」「洗足池」を通り「下沼部」から丸子渡船場の道が中原街道(相州街道)です。]
「東京府15区8郡時代の町村区分図 | 資料紹介 | 特別区協議会」 – 「東京府下大崎町全図」(地図四つ切左下・字谷在家下、目黒川に大崎橋が描かれ、その前後・下方向は大字白金猿町沿い、上方向は平塚町大字戸越方向が中原街道です。)、「東京府下平塚町全図」(地図下中央・大崎町の「町」と「先」の間から上に延び、上端字長原の「長」と「原」の間に抜ける道が中原街道です。)、「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」(碑衾町エリア外ですが、地図下・洗足池の下の道路が中原街道です。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
中原街道
[中原街道(なかはらかいどう)は、相模国(神奈川県)平塚と武蔵国江戸(東京)とを結ぶ街道で、多摩川を丸子で渡る。成立は古代に遡り、東海道の一部としても機能していた。
中原街道は、武蔵国・相模国を結ぶ街道で、古代に発祥を持つ。相模国国府から、橘樹郡郡衙を通り、丸子で多摩川を渡り、江戸へ至り、東海道の一部だった。ただし詳しい成り立ちはよくわかっていない。日蓮が利用するなど中世には利用されていたと考えられていて、一部は延喜式によって定められた東海道(江戸時代のものとはルートが異なる)に含まれていたらしい、それ以前からあった道ではないかとも言われる。また、鎌倉街道下の道の一部とも考えられている。
後北条氏の時代に本格的に整備をし、工事の際狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたため、比較的直線区間が多い。狼煙を挙げた場所で今も記録に残っているのは、「横浜市旭区の今宿南町、清来寺の裏山」「上川井の大貫谷」「瀬谷区の三ツ境駅裏側」などがある。
1590年(天正18年)に徳川家康が江戸入りした際もこの街道を利用したと言われる。
江戸時代
江戸時代に東海道が整備された後は、江戸虎ノ門(現在の東京都港区虎ノ門)と平塚中原(現在の神奈川県平塚市御殿で、ここに中原御殿があった)とを結ぶ脇街道とされ、「中原街道」の名で呼ばれることとなった。別称として、相州街道・お酢街道・江戸間道・小杉道・こやし街道などがある。
小杉、下川井、中原に御殿が作られると、将軍が駿府往還や鷹狩などにも利用された。なお、「中原街道」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入って徳川幕府が行った1604年の整備以降である。
東海道が整備されると幹線道としての役割は東海道に譲るが、江戸 – 平塚間をほぼ直線につなぐ道路であり、脇往還として沿道の農産物等の運搬や旅人の最速ルートとして利用された。東海道は大名行列に使われるため、その煩わしさを嫌う庶民や商人が利用した。赤穂浪士も東海道を避け、中原街道で江戸入りしたと伝えられている。
現在は江戸時代とルートが多少異なるが、なお主要地方道として利用されている。
「中原街道周辺の御殿、御茶屋の分布図」・wikipedia-photo (wikipedia・中原街道より)]
[中原街道(中原道)は、江戸城の虎ノ門から相模国(今の神奈川県)平塚郊外の中原に通じる街道で、江戸時代には相州街道、または小杉道とも呼ばれ、東海道が整備されるまでは幹線道路として利用されていました。慶長元年から13年頃(1596~1608)には小杉(川崎市)と中原(平塚市)に御殿が設けられ、将軍の巡遊や鷹狩りの休息や宿泊にも使われていました。ところが東海道が幹線として整備されていくと、急ぎの旅や、東海道の混雑を避ける旅人に利用されるなど脇街道としての利用に変わっていきました。
一方、江戸の発展にともなって沿道の村々の産物を江戸に送るという輸送路としての役割が大きくなっていきます。なかでも中原で醸造された「お酢」を江戸へ運ぶ輸送路になっていたため「御酢街道」とも呼ばれていました。
中原街道は武蔵野台地の末端を通っているため、高輪台から五反田、大田区沼部にかけて坂道が多く、とくに港区境の猿町坂(現、相生坂)、桐ヶ谷坂、さいかち坂、大田区の洗足坂、旧道に今も残る「沼部の大坂」(桜坂)は急な坂でした。坂道が多いため、江戸からも、江戸へ行くにも旅人の通行や物資の輸送には大変な労力が必要でした。
では、中原街道沿いの村々の様子をみてみましょう。中原街道は品川台町、上大崎村、下大崎村、桐ヶ谷村、戸越村、中延村の村々を通っていました。品川台町(一時芝区に編入されたが、明治22年に大崎村に編入された町)は北品川宿の枝郷で、白金台町(現、港区)へつづく、中原街道の両側にできた細長い町で、本立寺や了真寺・宝塔寺とそれぞれの門前町屋、時の鐘でしられた寿昌寺、雉子の宮(雉子神社)などが連なった町でした。文政のころ(1820)の上大崎村・下大崎村の家数は、それぞれ21戸、33戸で、ともに高台には備前岡山藩、陸奥仙台藩などの大名屋敷が多くありました。
水田地帯の目黒川沿いの低地から桐ヶ谷村の東部を通る中原街道は高台へ向かう坂道旧桐ヶ谷坂で、家数は60軒ほどの農村でした。桐ヶ谷村から戸越村へ入るとなだらかな高台で、家数331軒、田圃より畑が多く、江戸から移住してきた山路治郎兵衛が孟宗竹を植えたのが始まりとされる「たけのこ」の名産地でした。中原街道と品川用水が交差するところに架かる橋が平塚橋。ここをすぎると家数118軒ほどの中延村にはいります。平坦な高台が続き、戸越村とならんで竹林が多く筍の産地として知られていました。
江戸時代、品川区域を通る中原街道の道幅は、3間程(5.4メートル)でした。大正時代になって中原街道は都心と神奈川県との交通を円滑にすることを目的に幹線放射道路として道路網計画が大正10年に決定され、翌年から各地域ごとに工事や道筋変更工事がはじまりました。品川区域のほとんどは昭和に入ってから工事に着手し、現在の荏原警察署付近の工事は昭和8年に工事が決まって着手されました。さらに多摩川に架かる丸子橋が完成したのは、昭和10年5月のことでした。品川区内では、西五反田六丁目から荏原二丁目にかけてと、旗の台二丁目付近にわずかに旧道の道筋が残っています。 (「江戸時代の道 第12回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]