住吉神社

マーカーは住吉神社です。

住吉神社
[住吉神社(すみよしじんじゃ)は、日本の東京都中央区にある神社である。旧社格郷社祭神住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)。
天正年間(1573- 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。
天正18年8月1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟江戸幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。
元禄7年(1694年)には、佃嶋(現・佃一丁目)に居住する男子からなる組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって近現代に及ぶ。
明治時代には、月島と新佃島、昭和時代には晴海豊海が埋め立てられ、また、人足寄場や監獄として利用されていた石川島(別称:森島、鎧島)が、明治29年(1896年)5月に監獄移転に伴って工業・居住の地となり、これらを含めた全島が氏子中に編入されていった。
鳥居と拝殿・wikipedia-photo

歌川広重名所江戸百景』の内「佃しま住吉乃祭(佃島住吉の祭)」幕末期の、当時はまだ行われていた海中渡御の様子。手前の幟は「住吉大明神」と読める。」・wikipedia-photo

「陶製の扁額に見える、有栖川宮幟仁親王の筆になる文字」・wikipedia-photo

住吉神社の八角神輿・wikipedia-photo

  (wikipedia・住吉神社 (東京都中央区)より)]

[隅田川河口付近の島。摂津国佃の漁民が宅地を造成し、移住したのが名前の由来。江戸湾内で漁をし、江戸の魚市に魚を卸した。白魚漁や佃煮の産地としても有名。現在は埋め立てられて陸続きとなっている。  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「佃島」より)]

住吉神社ホームページ

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図下中央・佃島に住吉神社が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図右上が「佃島」で、「住吉社」と描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「佃島-1」(2-35)、「佃島-2」(2-36)、「佃島・住吉神社解説」(2-34)、「住吉神社解説-2・右ページ左から4行目まで」(2-38)

絵本江戸土産 – 住吉神社祭(拡大図)

住吉神社 – Google Map 画像リンク」、「佃島 住吉神社 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は隅田川岸に建つ鳥居前です。

カメラ東南東方向が住吉神社です。

カメラ東南東方向が住吉神社拝殿です。

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