岡山藩中屋敷跡、備前橋跡

マーカーは備前橋跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP451・コマ番号269/553から岡山藩屋敷の変遷について記載されています。P452・コマ番号270/553「中屋敷 築地 京橋区築地二丁目」が、この中屋敷になります。

[松平内蔵頭は備前岡山(三一万二千五百石)の城主池田慶政である。大広間詰従四位少将、嘉永七年寅年二月任、天保十三(1842)寅六月家督を継ぐ。菩提寺は芝の仏日山東禅寺であった。
 中屋敷で、表門は尾張屋版では築地川に面しているが、近吾堂版では、南面して本願寺側にあるように記してある。本願寺北側の堀は幅八間、本願寺が管理していたようである。
 門前から南小田原町方面に渡る橋に備前橋の称があるのは、備前池田家が一手持の橋だったからであろう。橋の近くに上水の吐口(はけぐち)があるので、水舟が来ては水を汲んでいた。石川島南の人足寄場の水舟も、赤鬼青鬼が乗ってここまで水を汲みに来たそうである。
 本邸については『江戸藩邸沿革』に次の記載がある。
「岡山藩 侯爵 池田家 旧封三拾壱万五千弐百石
中屋敷 築地 京橋区築地二丁目
相対替宝永元(1704)年十月廿一日、切坪上地享保六(1721)年正月廿六日、相対替囲込明和五(1768)年十一月五日、相対替囲込、天保十四(1843)年三月十七日、坪数五千三百坪余。
備藩邸考、初此地ハ新庄侯戸沢家ノ上屋敷ナリシヲ、宝永元年我土器町ノ邸ト交易ノ事御願アリ、十月廿一日御許シ有リ、同十二月十三日戸沢家ヨリ受取ラル、五千三百坪ナリ。
享保六年正月廿六日、右之内三千坪上地ヲ被命云々。明和五年六月邸地狭溢ナレバ西北隣日向半兵衛ノ屋敷千坪ト、本所邸ノ半ト交易アリ、是日向ノ屋敷は我邸ノ上ケ地三千坪ノ内也。 (下略)  (「23.切絵図考証一〇 安藤菊二(PDFファイル:1495.91 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号73/147「延宝年中之形」の右ページ、本願寺右に戸沢能登守と記述されています。コマ番号74/147「享保三(1718)年之形」で松平大炊頭(池田継政)と記述されています。コマ番号75/147「享保六年之形」で屋敷上部分に日向靭眉と伊丹覚左エ門と記述されています。コマ番号78/147「文政十三(1830)年 天保五(1834)年之形」で池田丹波守と松平伊予守(池田斉敏)と記述されています。池田丹後守は岡山藩の支藩岡山新田藩6代藩主池田政範のことだと思います。コマ番号79/147「当時之形」で松平内蔵頭(池田慶政)と記述されています。)

岡山藩中屋敷跡、備前橋跡
[岡山藩の中屋敷築地にもありました。築地はその名が示すように、明暦の大火(1657年)後に湿地帯を埋め立ててできた地区で、海岸・堀沿いに町屋が設けられている他は、築地本願寺の周辺に旗本屋敷が集まる以外、ほとんどが大名の屋敷地となっていました。
 岡山藩邸は本願寺と堀を挟んだ北東向かい、築地地区のほぼ中央に位置しており、現在でも藩邸を囲む道がそのまま残されているため、藩邸の場所がはっきりと特定できます。広さは約1万6000㎡で、海岸に近く、藩邸前に掘があったことから、蔵屋敷としての役割を持っていたものと考えられます。
 当時は藩邸の前に堀があり、対岸との間に「備前橋」という橋が架けられていました。言うまでもなく、備前藩邸の前にあることから付けられた名称です。昭和60年ころまでは、掘割の一部が築地川として残り、備前橋も橋として機能していましたが、その後川は埋め立てられて公園となり、備前橋も片側の欄干と親柱を残すのみとなっています。  (「岡山藩中屋敷跡(築地) – 岡山市」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図中央左側に武家地、築地本願寺を囲むように築地川が描かれ、本願寺右下に備前橋が描かれています。また備前橋の右上・松平内蔵頭が岡山藩中屋敷です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図中央左上「本願寺」上方向に「松平伊豫守」が描かれ、その右下に「備前橋」が描かれています。)

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0003.jpg

江戸方角安見図鑑」・「ru11_01312_0001_p0028.jpg

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「七[147] – 78/147」(絵図中下・西本願寺右に松平伊予守と描かれています。)、「七[147] – 79/147」(絵図中下・西本願寺右に松平内蔵頭と描かれています。)、「七[147] – 74/147、75/147」(絵図中下・西本願寺右に松平大炊頭と描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「西本願寺」(2-40)、「西本願寺-2・左ページに西本願寺解説」(2-41)、「寒橋」(2-39)
西本願寺(「拡大図

(築地本願寺は、1679年に再建当時、「築地御坊」と呼ばれるようになった。なお、このときの本堂は西南(築地市場跡)を向いて建てられ、場外市場のあたりが門前町となっていた(wikipedia・本願寺築地別院より)。図会の下側に築地川(南支川)が、本堂の右側に岡山藩中屋敷前の掘が描かれている。]

(2018年4月画像)カメラ位置は備前橋跡で、備前橋は築地川・南支川に架かっていた橋で、カメラ東北東方向に備前橋の欄干と親柱が保存されていましたが現在は撤去され、碑に置き換わっています。また、カメラ北方向が岡山藩中屋敷跡になります。

カメラ北北東方向に備前橋跡碑があります。(備前橋跡 Google Map 画像リンク)

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