広島藩浅野家蔵屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP911・コマ番号499/553から広島藩屋敷の変遷について記載されています。P913・コマ番号500/553「下屋敷 築地」がこの地になります。

松平安芸守蔵屋敷
[築地(元)中央卸売市場の北東の角地、六四一六坪の地は、松平安芸守の邸地である。
 すなわち、広島藩主浅野家の蔵屋敷であった所である。浅野家は有名な長政の直系で、禄高四二万六千石。幕末の江戸における賜邸は、上屋敷は櫻田、中屋敷は赤坂、下屋敷は青山にあり、築地鉄砲洲には蔵屋敷があった。
 浅野家がこの地を拝領したのは、光晟(みつあきら)の時代、万治二(1659)年六月のことで、それまで霊岸島にあった蔵屋敷の替地として受領したのである。
 光晟公の父、長晟公の奥方には、家康の三女振姫が嫁していた。光晟は家康の孫に中る。それで、初期のこの邸地には華麗な御守殿が造営されていた。
 浅野家の蔵屋敷は、文久三年(一八六三)上地を命ぜられ、九月二二日、海軍操練所の増地として御軍艦奉行に明け渡され、維新後、しばらくは新政府の海軍伝習所として使用された。

 明治二年頃に出版された、一景筆「東京築地鉄砲洲景」という六枚続きの錦画の右端に、アキバシ脇から見た旧邸の建物が描いてある。  (「8.築地地区の蔵屋敷 尾州と芸州の蔵屋敷 安藤菊二(PDFファイル:1042.57 KB)」より)]

東京都立図書館アーカイブ – 万延改正新鐫京橋南築地鉄砲洲絵図(文久元[1862]改正再刻)」(絵図四つ切右下・御軍艦操練所下に松平安芸守蔵屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 万延改正新鐫京橋南築地鉄砲洲絵図(明治元[1868]改正再刻)」(絵図四つ切右下・御軍艦操練所がホテル館となり、その下松平安芸守蔵屋敷は海軍所と描かれています。)