マーカーは蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地碑です。
関連リンク – 中津藩奥平家上屋敷跡、中津藩奥平家下屋敷跡
[明石町の奥平家中屋敷の藩士長屋には、明和の頃、蘭学者の前野良沢が住んでいた。この良沢の仮寓に、杉田玄白、中川淳庵、石川玄常ら社中同人相会して、蟹行蚊脚横文字の「ターヘル・アナトミア」の翻訳に腐心し、惨胆たる苦心の末の、ついにその漢訳を完成し、『解体新書』本文四冊、付図一冊を刊行して西洋学術書翻訳の端緒を開き、蘭学勃興の導火線となったことは、あまりにも有名な話である。
また、幕末安政五(1858)年には、ここ奥平家中屋敷の長屋の一隅に、福沢諭吉が蘭学塾を開いて、初歩のオランダ語を藩中の子弟に教えた。この地が慶應義塾発祥の地となったこともまた、人のよく知るところである。 (「30.切絵図考証一七 安藤菊二(PDFファイル:2586.67 KB)」より)]
蘭学事始の地碑
[『蘭学事始』(らんがくことはじめ)は、文化12年(1815年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記。 上下2編。
『蘭学事始』は、戦国末期の日本と西洋の接触から書きおこし、蘭方医学の発祥、青木昆陽や野呂元丈によるオランダ語研究などを記述する。白眉(傑出しているもの)はオランダ医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳する苦心談である。明和8年(1771年)3月4日、前野良沢豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者)、杉田玄白、中川淳庵らは小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)を見学し、「ターヘル・アナトミア」のイラストが精確なことに一同感銘して翻訳を決意する。辞書すらない当時の環境下で苦心のうち翻訳を進め、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行する経緯が現場にいた者の目で描きだされた。特に良沢の名は『解体新書』には記されていなかったため、本書で初めて彼の業績が世に知られた。
杉田家の原稿本は安政2年(1855年)の安政の大地震による杉田家の被災で失われ、大槻家の写本もいつか散逸し、完全に失われたものとされて関係者から惜しまれていたが、幕末のころ神田孝平が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ、明治2年(1869年)、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。その後再発行を重ね、日本における西洋医学導入期の当事者による貴重な一次史料としてひろく一般に読まれるようになる。資料として第一級であり、文学性も高い。福沢諭吉は明治23年の「蘭学事始再版の序」で、草創期の先人の苦闘に涙したと記している。 (wikipedia・蘭学事始より)]
慶応義塾開塾の地碑
[開塾
福澤諭吉、藩命により江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(現在の東京都中央区明石町、聖路加国際病院のあたり)に蘭学塾を開く。これが慶應義塾の起源で、時に諭吉数え年25歳。いまはこの地に、創立100年を記念して「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられている。 (「歴史:[慶應義塾] – Keio University 」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」(絵図中央下に奥平大膳太夫と記述されています。)
「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号106-111/147・絵図中上に奥平大膳太夫が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図中心より左下方向に奥平大膳大夫中屋敷が描かれています。)
「慶應義塾発祥の地記念碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ南南西方向・安全地帯に蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地碑があります。
蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地碑(Google Map 画像)