下館藩石川家中屋敷跡

マーカーは伊勢亀山藩石川家中屋敷跡です。

関連リンク – 下館藩石川家上屋敷(中央合同庁舎五号館別館・人事院)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP897・コマ番号492/553から下館藩屋敷の変遷について記載されています。P899・コマ番号493/553「中屋敷 麻布市兵衛町」がこの地になります。

石川総貨
[石川 総貨(いしかわ ふさとみ)は、文政2年10月9日(1819年11月26日)、常陸下館藩第7代藩主・石川総承の長男として誕生した。天保7年12月5日(1837年1月11日)、父の隠居により家督を継ぐ。老中水野忠邦の推挙により、早くに御用番となった。天保8年(1837年)の大飢饉により、領内は荒廃し、被害は領民が12,000人から6,000人、負債額が35,000両に上るという莫大なものであったと言われている。このため、総貨は二宮尊徳に教えを請い、尊徳仕法によって藩財政を再建しようと努力した。嘉永2年9月12日(1849年10月27日)に死去し、跡を子の総管が継いだ。  (wikipedia・石川総貨より)]

石川総管
[石川 総管(いしかわ ふさかね)は、天保12年8月9日(1841年9月23日)、第8代藩主・石川総貨の長男として誕生した。嘉永2年(1849年)11月18日、家督を継いで藩主(雁間詰)となる。安政2年(1855年)12月16日、従五位下・若狭守に任官した。安政4年(1857年)3月10日、大坂加番を命じられる。慶応2年(1866年)6月15日に講武所奉行に就任し、8月17日に陸軍奉行並を当分の間兼任することを命じられる。10月15日、陸軍奉行並の兼任を命じられる。慶応3年(1867年)1月19日、若年寄兼陸軍奉行となる。慶応4年(1868年)1月23日に陸軍奉行を解任され、2月19日に若年寄を辞任する。
戊辰戦争では、幕府要職を歴任した経緯から佐幕派であったものの、新政府側への協力に決した。慶応4年(1868年)4月17日、旧幕府軍内藤隼人(土方歳三)隊が下館に侵入した際は軍資金200両を贈って難を逃れたが、その後、新政府軍から協力を要請されると進退に窮し、4月20日夜明けに下館を脱出して翌日に水戸の吉田薬王院に逼塞した。宇都宮を中心とする戦いで新政府軍の勝利が決した後、5月19日にようやく下館に帰還した。その後は新政府軍の一員として活躍している。なお、鳥羽・伏見の戦い当時に若年寄以上の幕閣であった者に対しては戦いへの関与の有無にかかわらず、新政府による責任の追及と処分が行われているが、総管は早い時期から新政府へ協力的な態度を取っていたためか、若年寄としての責任の追及や処分が行われたことを示す記録は確認されていない。
明治2年(1869年)6月、版籍を奉還して下館知藩事に就任、のち廃藩置県により免官。  (wikipedia・石川総管より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図四つ切右下に石川近江守(石川総貨)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元(1831)年調」(絵図中央に石川中務少輔(石川総承)と描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第七 麻布区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右上・御箪笥町62,67番、市兵衛町二丁目13番が下館藩石川家中屋敷跡になります。)

カメラ南南西方向は住友不動産六本木グランドタワーで、この付近一帯が下館藩石川家中屋敷跡になります。