八戸藩南部家・出石藩仙石家・高富藩本庄家(山上藩稲垣家)上屋敷跡(アークヒルズ仙石山森タワー)

マーカーはアークヒルズ仙石山森タワーです。

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アークヒルズ仙石山森タワー
[アークヒルズ仙石山森タワーは、東京都港区六本木一丁目に所在する、超高層ビル(オフィスビルおよび住宅)。2013年度グッドデザイン賞受賞。
麻布グリーン会館や住宅があった地に、「虎ノ門・六本木地区第一種市街地再開発事業」によって、森ビルの目指す「Vertical Garden City(立体緑園都市)」のコンセプトのもと、複合用途を超高層に集積させることで地上に広場や緑地を創出させることで実現した複合超高層ビルである。総事業費は約656億円。ここには出石藩仙石家の屋敷があった。当地一体の高台は仙石山と呼ばれており、名称はそれに由来する。
超高層の複合棟は3階から24階が住宅、25階から47階を事務所とした。眺望の面から上部を住宅とすることが普通であるが、夜間のオフィス照明の周辺への影響を考えた場合、下部に住宅を設けた方がここではふさわしく、下部に荷重が大きい住宅躯体がある方が構造的にも合理的であることから、森ビルが開発を手掛け、先に竣工したオランダヒルズ森タワー(2004年10月竣工)、アークヒルズフロントタワー(2011年1月竣工)などと同様に住宅層を下層階に、オフィス層を上層階に配置した。
高層部の施工中に東日本大震災が発生した。それを受け、電力不足への懸念や企業の事業継続計画への意識が高まる中、供給への信頼性の高い都市ガス(中圧ガス)利用の非常用発電機を2台導入したほか、構造上も制振の高強度鉄筋コンクリート造として耐震性能を高めた。また、回転扉にかわる安全で省エネに優れる新ゲートシステム「パスムース」を開発し、セキュリティゲートとしてオフィスエントランスに採用した。
敷地南側には8階建ての住宅棟である「アークヒルズ仙石山テラス」33戸も建てられ、1階には新設区道である「しいのき坂」の道路に面して飲食店が配置されている。仙石山テラスそばには「大けやき広場」があり、芝生の広場はイベントなどに利用される。また人工的な水辺・ビオトープも設け、一帯を「こげらの庭」と命名した。すると、1年足らずでひょっこりとコゲラが姿を見せるようになった。
アークヒルズ仙石山森タワー・wikipedia-photo

  (wikipedia・アークヒルズ仙石山森タワーより)]

八戸藩南部家(南部遠江守)
[八戸藩(はちのへはん)は、陸奥国三戸郡八戸に藩庁を置き南部家が治めていた藩。
寛文4年(1664年)、南部盛岡藩2代藩主・南部重直が嗣子を定めずに病没したため、幕府の命により遺領10万石を、重直の2人の弟、七戸重信の盛岡藩8万石と、中里数馬の八戸藩2万石に分割した。将軍の裁定により成立した藩であるため独立した藩とされ、翌寛文5年(1665年)に領地が配分され、治所は八戸城と定められた。中里数馬は「南部直房」と名乗って八戸藩の初代藩主となった。
2代藩主南部直政元禄元年(1688年)に、5代将軍徳川綱吉側用人となり、辞任するまでの間、譜代大名なみの待遇を受けていた。
8代藩主南部信真は立藩当時は無城主格であったが、天保9年(1838年)沿岸警備の功により城主格となった。
9代藩主南部信順は薩摩藩より迎えられ、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、八戸藩は奥羽越列藩同盟の圧力を直に受けることとなる。というのも、信順の実家が列藩同盟の敵方・薩摩藩であったために、最初から仮想敵として見られていたからであった。信順は列藩同盟には家老を立ち会わせ、一方で官軍側に立った久保田藩と密かに連携するなど、この難局を上手く乗り切り、結局一度も戦闘に参加することなく八戸藩の存続に成功した。  (wikipedia・八戸藩南部信順より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP400・コマ番号244/553から出石藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 西久保」がこの地になります。

仙石騒動
[但馬国出石藩7代藩主仙石久利文政3年(1820年)2月23日、第5代藩主・仙石久道の十二男として出石で生まれる。文政7年(1824年)5月に異母兄で第6代藩主の政美が死去した。政美には嗣子が無かったため、隠居していた父・久道は後継者の選定会議を江戸で開いたが、この会議の際に家老の仙石久寿(左京)が10歳になる息子の小太郎を連れて出府した。そして選定会議で久道の末子である久利が後継者と決まり、幕府に養子届けを出して7月13日に受理され、8月6日に家督を継いだ。ただし、幼少のために久道が後見人となった。
ところが左京が自分の息子を連れて出府したのに対し、左京の政敵である仙石久恒(造酒)が「我が子を藩主に立てて主家を乗っ取るつもりだ」と久道に訴え、その結果として文政8年(1825年)に左京は家老職を罷免されて失脚した。こうして造酒が藩の実権を握ったが、造酒は質素倹約だけの財政政策しか打ち出せず、藩財政が窮乏する出石藩の再建はならなかった。このため、久道は造酒を解任し、再び左京を取り立てた。このことがよほどショックだったようであり、造酒はほどなくして病死する。
政敵のいなくなった左京は、以前の重商主義政策に加えて、厳しい倹約や運上(営業税)の取り立て強化などを行なった。特に面扶持という政策は、家族1人に1石8斗を支給するだけという厳しいものだったため、藩士の反発を買うことになる。そして天保2年(1831年)に入ると、左京の息子・小太郎が老中首座・松平康任の姪を正室に迎えたため、左京に反発する酒匂清兵衛(造酒の実弟)らが久道に「左京は主家を横領している」と訴えた。しかし、久道はこの訴えを却下し、逆に酒匂らは蟄居に追い込んだ。さらに勝手役の家老・河野瀬兵衛が首謀者であるとして、追放した。
追放された河野は江戸詰の仙石家の家臣・神谷転と手を結んで、幕閣や仙石家の分家に左京の非を訴えた。これに対して左京は江戸南町奉行筒井政憲に河野と神谷の捕縛を依頼し、河野を捕らえて天保6年(1835年)に死罪に処した。しかし神谷は機転を利かし、捕縛される直前に友鷲と号して虚無僧になっていたため、仙石家に引き渡されることがなく慰留された。このため、事件は町奉行から寺社奉行である脇坂安董と部下の川路聖謨が担当することとなった。
安董は事件の調査をしていくうちに、老中首座の松平康任までもが関わっていることがわかった。ここで事件を表沙汰にすれば、康任を失脚させて自分がいずれは幕府の権力者になることができると考えた安董は、天保6年(1835年)9月に評定所で吟味を開始した。そして12月に出た採決の結果、左京に罪があるとして左京は獄門、小太郎は遠島、その側近や用人は死罪、そして藩主である久利も「家政不取締り」を理由にされて5万8000石の所領を3万石に減らされた。老中の松平康任は強制隠居・謹慎となった。これがいわゆる仙石騒動であり、松平を罷免した脇坂は天保8年(1837年)に老中に任じられている。
第2次仙石騒動
仙石騒動の後、藩政は造酒の流れを汲む守旧派の荒木玄蕃が行なった。しかし、政治能力に乏しい荒木では藩財政再建はならず、久利は天保10年(1839年)に解任し、以後は自らが親政する形をとった。ところが久利は、造酒の弟・酒匂清兵衛を重用して藩政改革を行なうようになる。これが先の騒動で追放された桜井一太郎には不満であり、この桜井から久利が酒匂を重用していることを幕閣に訴えられた。幕府としては、先の騒動に関連のある人物を重用するということは、自分たちの採決をないがしろにしているということになる。このため天保14年(1843年)8月、幕府は再び久利に対して酒匂の切腹などを命じた。そして久利の後見人として幕府は先の桜井一太郎と堀新九郎を勘定奉行・家老として送り込んだ。つまり幕府は、幕府と深い繋がりのある2人を出石藩の中枢に送り込むことで、久利を幕府の意向による傀儡藩主に仕立て上げたのである。
藩政の実権を掌握した新九郎は藩財政の再建を目指し、嘉永4年(1851年)には村替えにより実質的に2500石の加増となった。この政治手腕を讃えられて、新九郎は家禄を倍増の500石とされ、中興の忠臣と讃えられた。しかし幕府の後ろ盾を持って藩政を仕切る新九郎のことを、久利も家臣団も快く思わなかった。嘉永7年(1854年)4月には多田弥太郎が新九郎の専横を糾弾したが、久利は多田を入牢に処した。しかし幕末の動乱で幕府の影響力が弱まったのを見た久利は、文久2年(1862年)12月に甥で養子の政固と手を結んで新九郎を切腹に処したのである。そして藩論を尊王派で統一した。  (wikipedia・仙石久利より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP727・コマ番号407/553からの山上藩上屋敷の変遷について下記の通り記載されています。
『山上藩 子爵稲垣家
一、上屋敷 麻布市兵衛町
  拝領元禄二(1689)年二月 上地安政五(1858)年七月八日
一、上屋敷 八重洲河岸
  拝領安政五年七月七日 上地文久元(1862)年七月十九日
  (若年寄ノ屋敷ナリ)
一、上屋敷 築地
  拝領文久元年七月十九日』
と記述されています。山上藩稲垣家は元禄二(1689)年二月から安政五(1858)年までの169年間この屋敷を拝領していましたが、第7代藩主稲垣太篤が若年寄に就任し八重洲河岸に屋敷替えとなります。太篤は安政七(1860)年に解任され、第8代藩主稲垣太清の時、築地に屋敷替えとなります。この地には安政四年(1857年)に若年寄に任じられ、同時に3000石を加増されて1万石の大名として諸侯に列した本郷石見守(本郷泰固)が、安政五年(1858年)、5000石没収の上、若年寄を罷免されて改易され、再び旗本となり屋敷地を拝領、その後高富藩本庄家(本庄宮内少輔)の上屋敷と成ると思われます。]  

山上藩稲垣家
[山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋。
山上は近江国と伊勢国を結ぶ要衝地帯であった。豊臣氏時代には杉原家次浅野長政織田信高らが領していた。徳川氏の時代に入ると元和5年(1619年)10月21日に譜代の家臣である上野高崎藩安藤重信の領地となった。元禄8年(1695年)5月1日、安藤重博老中に栄進したため備中松山藩に移封され、山上は幕府直轄領となった。
元禄11年3月7日(1698年4月17日)、若年寄であった稲垣重定常陸国から移封されたため、山上藩が立藩した。所領石高は1万3000石であった。重定の時代に奉行制度などの藩政が確立したが、第3代藩主稲垣定享の時代には江戸の大火で上下両屋敷が焼失して出費が相次いだため、定享は質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行したが、効果が見込めず、また定享自身が若死にしたため、失敗に終わった。その後は天明の大飢饉による寒冷で凶作・飢饉が相次いで藩財政は窮乏していった。また、歴代藩主の多くが若年寄や大坂加番大番頭や奏者番などの要職を歴任したことも、かえって藩財政の出費を著しいものとする遠因となった。
幕末期、第8代藩主の稲垣太清は大番頭や大坂定番、海軍奉行などの要職を歴任して佐幕派の立場を貫いたが、明治維新頃から太清が病に倒れて稲垣太祥が代理として藩政を執り始めた頃から新政府側に与するようになった。そして明治2年(1869年)の版籍奉還で、太清は隠居して太祥が知藩事となった。その後、山上藩では民政局、裁判所、藩校である文武館などが創設されるなどの改革が行なわれたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で山上藩は廃藩となって山上県となる。  (wikipedia・山上藩より)]

高富藩本庄家(本庄宮内少輔)
国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP599・コマ番号343/553の高富藩上屋敷の変遷について下記の通り記載されています。
『一、上屋敷 西丸下
  拝領天保十二(1841)年九月十八日 上地万延元(1860)年正月晦日
  (若年寄屋敷ナリ)
一、上屋敷 麻布市兵衛町
  拝領万延元年正月晦日
   屋敷書抜万延元年正月晦日 本郷石見守上ケ地』
と記述されています。第9代藩主本庄道貫が天保十二(1841)年若年寄となり西丸下に上屋敷を拝領、道貫は安政5年(1858年)若年寄現職で死去。第10代藩主本庄道美の時代に屋敷替えとなっています。]

[高富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。
第5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の異母兄・本庄道芳の孫・本庄道章宝永2年(1705年)3月に1万石の大名として高富に入ったことから(正式に高富に陣屋が移ったのは宝永6年(1709年))、高富藩が立藩した。これはもちろん、綱吉と桂昌院の縁故のためである。
元来、本庄家は江戸定府で、その出自や立地から京都の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が多くあった。そのため第8代藩主・本庄道昌の時代から財政窮乏が始まる。第9代藩主・本庄道貫は厳しい倹約令を出し、百姓に対しては植林を薦める一方で莫大な献納金徴収を図ったが、この藩政改革は失敗した。そのため、今度は年貢増徴政策、藩札の発行から京都の豪商を財政顧問として招いての藩政改革を図ったが、これも年貢増徴に反対する百姓の反対で頓挫する。道貫はその後の安政5年(1858年)にも藩政改革を図ったが、同年8月26日に道貫が死去したため、またも頓挫した。
その跡を継いだ第10代藩主・本庄道美の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応4年(1868年)には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は20万7400両もの借財を抱えていた。藩内の庄屋をはじめとする豪農にも多額の借財があったが、その大半は後の版籍奉還で証文のまま終わっている。1万石と言えど、知行地の本領が美濃、分領は遠く関東にあるという事情も、藩財政の窮乏の原因であるようである。  (wikipedia・高富藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正今井谷六本木赤坂絵図(万延2[1861]改正)」(絵図四つ切右下・上方向に本庄宮内少輔、南部遠江守上屋敷が描かれています。南部遠江守上屋敷左に南部遠江守中屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 増補改正芝口南西久保愛宕下之図(万延2[1861]改正)」(絵図中央左端に本庄宮内少輔、南部遠江守、仙石讃岐守上屋敷が描かれています。南部遠江守上屋敷左に南部遠江守中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(本庄宮内少輔の場所に稲垣安芸守上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 1号」[コマ番号4/6・絵図四つ切右上・大養寺、飯倉八幡(西久保八幡神社)下に仙石讃岐守、南部遠江守、本庄宮内少輔が描かれています。]

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麻布区市兵衛町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図四つ切右下・麻布市兵衛町一丁目下の毛利邸、梨本宮邸が八戸藩南部家・出石藩仙石家・高富藩本庄家(山上藩稲垣家)上屋敷跡になります。また梨本宮邸の左の邸宅が八戸藩南部家中屋敷跡になると思います。)

アークヒルズ仙石山森タワー – Google Map 画像リンク」「大けやき広場 – Google Map 画像リンク」

カメラ位置は御組坂上で、カメラ東南東方向がアークヒルズ仙石山森タワーです。

カメラ北北東方向が「大けやき広場」で、カメラ南南西方向が我善坊谷(御先手組組屋敷跡)で、都市再生特別地区(虎ノ門・麻布台地区)となっています。