浄土寺

マーカーは浄土寺です。

浄土寺
[・浄土寺は、現在も港区赤坂4-3-5にある浄土宗の寺。
文亀3年(1503)に創建。
明治40年(1907)、赤坂の第3連隊の敷地拡張のため、墓地だけが現在地に移された。
江戸時代後期を代表する作家の柳亭種彦の墓地もある。
信濃国奥殿藩(大給藩)・松平家墓所
・初代藩主松平乗次の墓を中心に、10代までの歴代の藩主と夫人の墓がある。整然と立ち並ぶ巨大墓石群は壮観。
<品川区指定文化財・史跡第16号>
○江戸文学で名高い柳亭種彦の墓は品川区指定文化財となっている。
墓は墓地の奥の方にある。種彦は江戸後期に活躍した読本の作者。200俵取りの武士であったが、俳譜・狂歌・絵画・戯作をよくし、芝居を好み、声色が巧みであるなど多芸であった。1783~1842。  (「しながわ観光協会(東京都品川区) – 柳亭種彦の墓地」より)]

[ 港区指定有形民俗文化財
銅造地蔵菩薩坐像
平成5年(1993)9月28日指定
 左手に宝珠を、右手に錫杖を持ち、跌坐している。ひとびとはこの世で犯した罪業により、六道を輪廻して地獄におちると信じられていた。地蔵菩薩は、その地獄道にあって、衆生を教え導き、救済するといわれ、広く民間に信仰された。一般には六道に合わせて「六地蔵」の名が親しまれたが、六体で一具という限定はあるわけではない。
 本像には、像身・台座に数多くの刻銘がある。それによれば享保4年(1719)2月23日に、勧進僧地蔵坊正元・赤坂一木浄土寺の往持観誉らを中心に、945名の信者合力を得て作成され、鋳物師は、太田駿河守正義である。正元は、同様の形のいわゆる「江戸六地蔵」を、各所につくっているが、本像はその中には含まれていない。
 江戸時代中期における地蔵信仰のあり方を伝える資料として、また、港区における民間信仰の実態を知る資料として貴重である。
 東京都港区教育委員会   (「東京都港区の歴史」より]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図右上方向に浄土寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図左中央・松平安藝守左上に浄土寺が描かれています。)

浄土寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が浄土寺参道です。

[大給藩
大給松平家は徳川家康の5代前の松平氏当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平氏宗家に譜代の家臣として仕えた。第5代当主・松平真乗の次男で徳川秀忠に仕えた松平真次は、大坂の役の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本としてこの地に陣屋を構えた。真次の子・松平乗次は、大坂定番となって1万石を加増され、合計1万6000石の大名となった。その後、第3代藩主・松平乗真の代に至ると、大給は山間にあって交通の便も悪く、手狭となったことから、正徳元年(1711年)4月28日、藩庁を領内の奥殿に移転した。
奥殿藩
奥殿移転後も、1万6000石の小藩の悲しさからか、享保年間には矢作川の洪水、飢饉を原因とする年貢半減を求める強訴などが起こった。天明年間にも天候不順から大凶作となり、そのために藩内で大暴動が起こった。このような中で第7代藩主となった松平乗利は有能な名君で、90歳以上の者に対しては長寿を称えるということから毎年、米を100苞与えた。さらに文武を奨励して演武場、藩校・明徳館などを創設している。天保4年(1833年)の凶作時には、窮民に対する救済も万全に行なうなど、他の歴代藩主と比較して賞賛されるほどの藩政を行なっている。乗利の後を継いだ松平乗謨は、幕末の動乱の中では佐幕派であり、海陸御備向・大番頭を経て、24歳の若さで若年寄にまで栄進し、幕末の幕政に尽力した。文久3年(1863年)9月11日、乗謨は藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡に移転した。しかし、三河国の領民の多くは、この移転に反対して嘆願書を差し出すほどであったと言われている。  (wikipedia・奥殿藩より)]

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