マーカーは千住大橋です。
千住大橋
[最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目に現存しており、この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたといわれる。また祭礼では橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱をつかって綱引きをして吉凶を占う行事があった。架橋後は「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しが佐倉街道、奥州街道、水戸街道への街道だったが、この橋に街道が移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回に及ぶ。なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。その後、二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。
千住大橋(2011年7月31日)・wikipedia-photo、竣工当時の千住大橋・wikipedia-photo (wikipedia・千住大橋より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図」(絵図左上に千住大橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下」(コマ番号3・地図右端に千住大橋が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「千住川千住大橋」(17-19)、「千住大橋解説・右ページ中程」(17-20)
千住川千住大橋(拡大図)
「東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「千住大橋綱曳」(3-19)、「千住大橋綱曳其二」(3-20)、「彼岸六阿弥陀詣其二」(2-7)
千住大橋綱曳(拡大図)
千住大橋綱曳其二(拡大図)
「木曽路名所図会. 巻之1-6 / 穐里籬島 編 ; 西邨中和 [画]」・「千住大橋」( 7 巻- 43 )
絵本江戸土産 – 千住川大橋(拡大図)
名所江戸百景[歌川(安藤)広重](千住の大はし・wikipedia-photo)