吉原

マーカーは江戸町通り/中之町通り交差点です。

吉原
[江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、江戸幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内(庄司甚右衛門)の出身地が東海道宿場吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があった。吉原はその内五カ丁を大御所家康亡き後駿府から移したのが始まりである(二丁町遊郭)。明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田んぼに移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。江戸城の北に当たるところから「北国(ほっこく)」または「北州(ほくしゅう)」の異名もある。  (wikipedia・吉原_(東京都)より)]

[江戸市中は拡大しつづけ、大名の江戸屋敷も吉原に隣接するようになっていた。そのような中で、明暦2年(1656年)10月に幕府は吉原の移転を命じる。候補地は浅草寺裏の日本堤か、本所であった。吉原側はこのままの営業を嘆願したが聞き入れられず、結局、浅草寺裏の日本堤への移転に同意した。この際に北町奉行石谷貞清は以下の便宜を図っている。
●吉原の営業できる土地を5割り増し(3丁四方)
●夜の営業を許可
●風呂屋者(私娼)を抱える風呂屋(風俗営業をする銭湯で、遊郭の競合)を200軒取り潰し
●周辺の火事・祭への対応を免除
●15,000両の賦与
この内容から風呂屋の盛況も移転の理由だったことが窺える。幕府は同年9月に風呂屋者を置くことを禁止している(それ以前との記録もあり)。もっとも、周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした。折りしも翌明暦3年(1657年)正月には明暦の大火が起こり、江戸の都市構造は大きく変化する時期でもあった。大火のために移転は予定よりも少し遅れたが、同年6月には大火で焼け出されて仮小屋で営業していた遊女屋はすべて移転した。移転前の場所を元吉原、移転後の場所を新吉原と呼ぶ。新吉原には、京町1,2丁目、江戸町1,2丁目、仲之町、揚屋町、角町があった(京町以外は全てちょうと読む)。
寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより娼家主51人、遊女512人が検挙されて新吉原に移された。これらの遊女に伏見の墨染遊郭や堺の乳守遊郭の出身が多かったため、移転先として郭内に新しく設けられた区画は「伏見町新道」「堺町新道」と呼ばれた。
江戸末期の新吉原の見取り図・wikipedia-photo
右のくねった道は日本堤から下る「衣紋坂」とそれに続く「五十間」で、遊廓への唯一の公式通路。「大門」をくぐった先が吉原遊廓で、高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれた、隔絶された楽園であった。廓内は、通りごとにいくつかのエリアに分かれていた。道路のつくりはほぼこのとおりに現存していて、地図で容易に確認することができる(ただし、実際にはもっと上下に広く左右に狭い)。  (wikipedia・吉原遊廓より)]

[浅草北部にあった遊郭。当初、日本橋葺屋町ふきやちょうの東側に開設したが、明暦2(1656)年に移転を命じられ、翌年の明暦の大火の後、浅草千束村へ移った。以前を元吉原、以後を新吉原と呼ぶ。最盛期には3,000人の遊女を抱えていた。日本堤から衣紋坂を通り、堤から遊郭が見えないように曲がった五十間道を経て、大門をくぐって入る。日本堤から衣紋坂へと曲がる東角に柳があり、客が振りかえって名残を惜しむ位置にあるために「見返り柳」と呼ばれる。周囲には「御歯黒溝おはぐろどぶ」と呼ぶ堀をめぐらし、出入り口は大門一か所として、遊女の脱走を防いだ。中央の大通り「仲之町」には、春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、人工的な楽園を演出した。
江戸名所図会を読む:
    新吉原遊女町(本文)
    新吉原町(挿絵)
    新吉原中之町八朔図(挿絵)  (「歌川 広重 初代 | 錦絵でたのしむ江戸の名所 – 国立国会図書館」-「新吉原」より)]

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](廓中東雲・wikipedia-photo)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](よし原日本堤・wikipedia-photo)

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](浅草田甫酉の町詣 (吉原妓楼より見た風景:背後の森は正燈寺)・wikipedia-photo)

吉原資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図中央に吉原が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下(安政六年・1859年)」(コマ番号7・地図中央上に吉原が描かれています。)

江戸名所図会」(新吉原町新吉原仲之町八朔

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「新吉原町」(17-50)、「新吉原仲之町八朔」(17-51)、「新吉原遊女町解説-1・左ページ中程から」(17-49)、「新吉原遊女町解説-1」(17-52) 

「東都歳事記」・吉原燈籠.jpg

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「吉原燈籠」(4-12)

「江戸遊覧花暦」(新吉原
江戸遊覧花暦. 巻之1-4 / 岡山鳥 編輯 ; [長谷川雪旦] [画]」・「新吉原」(1-21)、「新吉原解説-1・右ページ左から3行目より」(1-20)、「新吉原解説-1・右ページ最終行まで」(1-22)

東都名所・吉原仲の町夜桜[歌川(安藤)広重]

カメラ位置は江戸町通り/中之町通り交差点です。

カメラ西南西方向階段際の石垣が「おはぐろどぶ」遺構です。

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