山谷橋(吉野橋)

マーカーは山谷橋(吉野橋)跡です。

山谷橋(吉野橋)
[明治40年頃の吉野通りは山谷通りと呼んでいた。明治2年、新鳥越町(元の鳥越町の替え地として新鳥越町は出来た)は吉野町と町名変更になった。この町名は、この辺り一面は野原であったので、野の上にめでたい吉の字を冠したものである。 同時に山谷橋も吉野橋に改称された。江戸時代は、浅草橋蔵前浅草千住と続く奥州街道であり 山谷堀の今戸橋から3つ目、吉野橋をまたいで南北に走り北進して日光街道(旧奥州裏街道)と合流する通りである。  (「吉野通り – DTI」より)]

[今戸橋山谷堀に架かる最下流の橋。ここから上流に向かって、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋の9橋が有った。今戸橋で船を下りて、山谷堀の土手を吉原まで歩きます。  (「第163話落語「今戸の狐」(いまどのきつね) – 落語の舞台を歩く」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」(絵図中央下、今戸橋の上に三谷ハシが描かれています。)

カメラ位置は山谷橋(吉野橋)跡南詰めで、四隅に橋柱が保存されています。

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