平賀源内墓

マーカーは平賀源内墓です。

平賀源内墓
[白鬚橋の西、明治通りから路地を一つ南へ入ったところにある。もとは総泉寺があったところで、寺は関東大震災で罹災したため、昭和3年(1928年)に板橋区小豆沢に移って再興された。寺が移転した後、墓所だけが残された。
  角塔状の墓石は築地塀の中の敷地ほぼ中央にあり、後方に従僕福助の墓がある。墓は昭和18年(1943年)に国の史跡に指定された。
  平賀源内江戸時代中期の科学者、戯作者、画家として博学多識の人であったが、誤って殺傷事件を起こし、安永8年(1779年)に牢内で病死して総泉寺に葬られた。医療用の摩擦起電機エレキテルの製作で特に有名。  (「東京ガイド – 平賀源内墓 [史跡]」より)]

平賀源内の墓 – Google Map 画像リンク

平賀源内墓地前のカメラです。

平賀源内墓(Google Map 画像)

平賀源内
[讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。平賀氏は讃岐高松藩足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族だったが、戦国時代平賀玄信の代に甲斐国武田信虎武田晴信父子に滅ぼされ、奥州白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予国宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。
幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる。宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語医学油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。
大阪京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆国鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。この頃には江戸幕府老中田沼意次にも知られるようになる。物産博覧会を度々開催し、宝暦12年(1762年)には物産会として第五回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白中川淳庵らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るために辞職する。
宝暦13年(1763年)には『物類品隲』を刊行。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵国川越藩秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽国秋田藩佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死、享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく、遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも未だにはっきりとはしていない。
戒名は智見霊雄。墓所は総泉寺の移転前の台東区の敷地にあり、総泉寺自体が浅草に移転した後もそのままの場所に残されている。
『戯作者考補遺』所載の木村黙老による肖像画・wikipedia-photo  (wikipdia・平賀源内より)]

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