新堀川・合羽橋

マーカーは合羽橋交差点です。

新堀川・合羽橋
[文化年間にこの地で掘割(後の新堀川、現在は消滅)整備を行った合羽屋喜八が合羽橋の名前の由来の一つとされており、湿地帯であるこの土地の住民達のために私財を費やして整備を行った合羽屋喜八の良心に心を打たれた河童達が、夜ごとに工事をして喜八を助けたという言い伝えが残っている。合羽橋交差点で道具街通りと交差するかっぱ橋本通り沿いの曹源寺(通称かっぱ寺)に合羽屋喜八の墓がある。道具街の起源は、1912年(大正元年)頃に数軒の道具商が店を構えたこととされている。  (wikipedia・合羽橋より)]

[浅草の「かっぱ橋道具街」は、台所用品なら商売用から家庭用まで何でもそろう問屋街として名をはせている。東京メトロ銀座線の田原町駅から浅草通りを上野方面へ向かうと右手の、北へ延びているこの道具街の両側には二百余りの店が軒を連ねている。
 ここにこの種の商店が集まりだしたのは大正の初めころという。当時、通りには新堀川、または単に新堀といった川が流れていた。江戸時代初期の十七世紀半ば。入谷、千束田圃の排水と舟運のために幕府が開削した水路で、昭和初年に暗渠となった。
 現在、道具街の中ほどの交差点名を合羽橋といい、ここを東西に走っている通りには「合羽橋本通り」の名が付いている。新堀川が流れているころ、ここに合羽橋が架かっていたからである。
 十九世紀半ばの嘉永年間に刊行された江戸の切絵図には、浅草寺西方の田園地帯から南へ流れる細い川が描かれていて「浅草新堀」との書き込みがある。また、現在の道具街の辺りには「カシチ」と書いてあり、これは漢字で書けば「河岸地」だろう。  (「大成建設 | ライブラリー – 道具街 合羽橋 菊屋橋」より)]
  
[「合羽」の由来は2つの説があります。ひとつは、今はない新堀川の整備を行った雨合羽の商人、合羽屋喜八のはなし。今から200年ほど前の文化年間の時代。この辺りは水はけが悪い低地で、雨が降るたびに洪水となり、人々は困り果てていました。そこで、合羽屋喜八が私財を投じて、水路をつくる工事に着手。しかし工事はことのほか難航しました。これをみた隅田川の河童たちが同情し、喜八の良心にも心を打たれて、夜な夜な工事を手伝い、工事は無事に完成したと言い伝えられています。通称かっぱ寺とよばれる曹源寺には、合羽屋喜八の墓があります。
もうひとつの説は、橋の近くにあった、伊予国新谷加藤家下屋敷にまつわるはなし。屋敷に住んでいた下級武士たちは、内職に雨合羽を作っていたそうです。その雨合羽をこの橋にかけて乾かしていたことから「合羽橋」と呼ばれるようになったと言われています。  (「かっぱ橋本通り 浅草かっぱ伝説の地 | 浅草観光連盟」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「誓願寺日倫寺」(16-40)、「海禅寺」(16-41)
誓願寺日倫寺(拡大図)

[東本願寺、誓願寺左道中央に新堀川が描かれている。]

海禅寺(拡大図)

[図会左ページ上に海禅寺が描かれ、右ページ清水寺上に描かれているのが合羽橋です。]

カメラ位置は合羽橋交差点で、カメラ北・南方向の合羽橋道具街の通りに沿って新堀川が流れていた。

カメラ南方向が合羽橋道具街の「ときわ食堂総本店」からの暖簾分けでつくる「東京ときわ会」加盟店「合羽橋 ときわ食堂」です。(ときわ食堂 – 浅草/定食・食堂 [食べログ])

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