マーカーは朝日弁財天です。
朝日弁財天
[所在地:台東区竜泉1-15
下谷七福神のひとつ、朝日弁財天は江戸初期の備中国松山城主・水谷伊勢守勝隆が寛永元(1624)年に下屋敷内の池に祀ったのが始まりです。弁財天を信仰していた勝隆は同時に不忍池にも弁天様を祀り、西にある不忍池の弁天を夕日弁天、東に位置する自分の屋敷の弁天を朝日弁天と称したとのことです。朝日弁天が祀られた弁天池はかつては約8,000平方メートルもの広さを持ち、その深さは底知れずと言われるほどだったといいます。池には琵琶の形をした約160平方メートルの島があり、木橋が架けられていました。鬱蒼と木々が生い茂るその島の中に朝日弁財天は祀られていたわけです。しかし、大正12年の関東大震災の後、当時の東京市の要請により、池は付近の焼土の処分場とされ、大部分が埋め立てられてしまい、現在は小さくて浅い池が残るのみで、往時の面影は全く残っていないようです。石橋の架かる池には立派な鯉が泳いでいます。弁天堂の横には聖観音菩薩像が立っていますが、これは池に落ちて亡くなった人や池の埋め立てで生き埋めにされた魚など、犠牲となった多くの命を供養するために建立されたものだということです。なお、現在の朝日弁財天は敷地の大部分が弁天院公園という区立の児童遊園になっています。 (「弁天院・朝日弁財天の弁天池: 行け! いけ! 探訪!! 東京の池と水門」より)]
[寛永19年(1642年)、成羽藩より水谷勝隆が備中松山藩5万石で入封する。松山藩の藩政・経済の基礎、松山城の城郭普請は水谷時代にほぼ完成を見たと言ってよい。第3代藩主・水谷勝美が無嗣子のため、末期養子・水谷勝晴をとったが、元禄6年(1693年)に遺領を継ぐ前に死去。勝美の弟・勝時をたてたが受け入れられず3,000石の旗本に減封となる。この際の松山城受け渡しには、『忠臣蔵』で有名な赤穂藩主・浅野長矩が任ぜられている。また長矩の名代として浅野家家老大石良雄(内蔵助)が次の藩主安藤氏が来るまでの1年半もの間、備中松山城を管理している。城明け渡しにあたって大石は単身で松山城に入り、水谷家家老鶴見内蔵助と対談に及び、無血開城にこぎつけたという。大石と鶴見の名がたまたま同じ内蔵助であったことから「両内蔵助の対決」として評判になったという。(wikipedia・備中松山藩#水谷家より)
水谷勝晴は備中松山藩主・水谷勝美が嗣子無く没したため、勝美の末期養子となった。本来ならばそのまま家督を継承するはずであったが、約1ヵ月後の同年11月27日(1693年12月23日)に疱瘡のため僅か13歳で死去した。そのため、水谷家から改めて勝美の弟が養子として申請されたが、「末期養子の末期養子」は認められなかったため、備中松山藩水谷氏は無嗣廃絶により改易となった。
なお、水谷家自体は勝美の弟・水谷勝時に3000石が与えられたため、旗本として存続した。(wikipedia・水谷勝晴より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上(安政六年・1859年)」(コマ番号8/10・絵図上中央に「水谷主水抱屋敷」が描かれています。)
「朝日弁財天 – Google Map 画像リンク」「弁天院公園 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向が朝日弁財天参道前のストリートビューです。
朝日弁財天堂前のストリートビューです。