東京大空襲痕跡(言問橋)

マーカーは言問橋です。

言問橋
[建設の経緯
1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災の復興事業として425の橋が建設された。復興局は相生橋永代橋清洲橋蔵前橋駒形橋、言問橋など115橋、東京市厩橋吾妻橋両国橋など310橋を担当した。復興局が建設した隅田川六橋は、地形の制約が無い限り、景観を考慮して鋼構造が路面よりも低い上路形式を採用した。
言問橋建設前に橋は無く、渡しがあるだけだった。架けられたのは、両岸から伸びる桁(突桁)が、川の中の2つの橋脚を支点として中央の桁(吊桁)を支持する上路形式のゲルバー橋であり、岩切良助が設計した。総鋼量2,718t。基礎にはニューマチックケーソン工法が採用された。塗装はオイルペイント上塗の3回塗で色はグレー。1928年(昭和3年)2月10日竣工、総工費1,830,713円。
両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた。川端康成は小説『浅草紅団』(先進社、1930年)の中で、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、「ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。」と記している。
言問の由来
「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』
という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。
有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。
東京大空襲およびその後
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の際には、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとした。しかし対岸の向島・本所地区もすでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこへ焼夷弾火災旋風が容赦なく襲いかかり、群衆らに引火していく。耐えかねた人々は次々と隅田川に身を躍らせたという。鎮火後の隅田川には一面に凍死体が浮き、言問橋の上は黒焦げの焼死体で埋め尽くされ、死体を踏まないと向こう岸へ渡れないほどだった。河川敷にも累々たる死体の山が築かれていた。
戦後は蟻の街と呼ばれた廃品回収業者の共同体が形成された。この共同体は1958年に8号埋立地(江東区潮見)へ移転が決定し、1960年頃に移転が完了した。
1992年(平成4年)から実施された改修工事で切り出された欄干の基部の縁石(色が黒ずんで変色している)が隅田公園に展示(東京大空襲戦災犠牲者追悼碑・言問橋の縁石)されている。また、江戸東京博物館の屋外通路(横網町公園側)にも取り外された欄干と縁石の一部が保存展示されている。
ただし、橋の親柱は一部未改修のため、現在も東京大空襲の際に橋の上で焼け死んだ人々の血液や脂が焼き付いて残っている。また、橋西詰の隅田公園内には、この空襲での犠牲者を追悼する慰霊碑が設けられている。
2008年(平成20年)3月17日と18日の2日間に渡って日本テレビ系列で放送された、日本テレビ開局55周年記念番組のテレビドラマ『東京大空襲』では、言問橋がストーリーに密接に関わっている。
2008年(平成20年)3月28日、両国橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。 また、西詰(浅草方)は東京スカイツリーの撮影スポットでもある。
竣工当時の橋・wikipedia-photo、東京都墨田区から(2005年8月)・wikipedia-photo
東京大空襲時の焼け跡が残る親柱(2010年3月20日撮影)(wikipedia-photo)

  (wikipedia・言問橋より)]

[第二次世界大戦終結から70余年、画家・狩野光男(かのうてるお)さんは1945年3月10日、実家の浅草で東京大空襲にあい、両親と2人の妹を失い孤児となりました。
 「空襲のことはずっと描くことは出来なかった」という狩野さんは、12年前からやっと描くことが出来るようになり、30数点の絵を完成させました。
 「絵による体験談」は大きな反響を呼び、NHKによる番組化をはじめ、「毎日新聞」「しんぶん赤旗」などにもとりあげられました。
 その1枚1枚に「戦争の真実を伝えたい」、「二度と戦争をおこしてはならない」という狩野さんの思いがこめられています。

 私の家はいまでいう浅草5丁目で、当時は千束3丁目でした。そこから逃げたわけですが、人間というのは火に向かって逃げられません。暗い方、暗い方に逃げるわけです。警防団もその方向に誘導します。暗い方というのは私の家から見るとやや南で、隅田公園が逃げ場所になっていました。
逃げていく途中、B29が来ました。ふだんは1万メートルくらいの高度で来るんですが、この日は1500-2000メートルという低空で来ました。いままで当たらなかった日本軍の高射砲が当たりました。真っ二つになって落ちていくのを見た時は喝采したものですが、向こうも焼夷弾をどんどん落としてきます。直撃を受けて亡くなる人もいました。
 その中を逃げて隅田公園に行ったんですが、家の近所や日本堤などから逃げてきた人が殺到して、いっぱいになってしまいました。隅田公園には高射砲陣地があってふだんは入れなかったんですが、緊急事態ですからみんな入ってしまいました。
 周りには木もあるし、このまま助かるのかなと思っていたんですが、そのうち火の手が迫ってきました。火の粉がものすごい勢いで突き刺さってきます。それから急激に酸素がなくなってきて、呼吸が困難になりました。
 防空頭巾というのはいいようで、危ないものなんです。布でできているので火の粉がつくと、気づかないうちに燃えてしまうんですね。それが着物に移って燃えだして初めて気がつくんですが、その時はすでに遅く、全身が炎に包まれて、そのまま倒れてしまうか、絶叫して走っていく。そんな状況がだんだん周りで起こってきました。
 隅田公園いっぱいに詰めかけていた群衆がいっせいに立ち上がって移動を始め、大混乱になりました。それまで私は父親と手をつないでいたんですが、手が離れてしまい、10人か15人くらいの人の下敷きになりました。このままつぶされてしまうのかと思いました。何とか這いだしたんですが、その時には家族とは離れていました。
 家族は両親と小さな妹2人、同居していた女性2人でした。私を入れて7人で逃げたんですが、独りぼっちになってしまいました。火の粉をはたきながら、地面に穴を掘ってそこに顔を突っ込んで、いくらかでも酸素を吸おうとしましたが、それも限界があります。周りを見ると、たくさんの人がグタッとしていました。
 隅田川の言問橋のところまで逃げてきたんですが、あまりにも熱いので川に下りる階段の途中まで逃げました。しかし、火は川面をなめていくんですね。そして、川の中にいる人の顔や上半身を焼いていくんです。後に水死体になった人の顔が焼けていたので、川の水が煮えたぎったんだという人がいましたが、川の水は流れているので煮えることはありません。冷たかったんです。炎で上半身を焼かれて亡くなったんです。
 炎は川の中央からひどい時は向こう岸まで届いていました。川の中に後から後から人が飛び込んでくるんですが、先に飛び込んだ人が沈んでしまいます。人が何重にもなって、その上にさらに人が乗っかってしまう。
 言問橋の上には、橋から見て向島側の人たちは浅草側に向かって、浅草側の人たちは向島側に向かって逃げてきました。そのため、橋の上でぶつかり合って動けなくなってしまいました。だれかの荷物に火がついて、そこから人に火が移りました。橋の上は大火災になりました。下から見ると橋が燃えているように見えるんですが、鉄の橋なので燃えるはずがありません。人が燃えていたんです。
 欄干に張りついていた人はみんな亡くなりました。飛び降りた人もいましたが、ほぼ亡くなったそうです。「天皇陛下万歳」と言って飛び下りた人もいました。なんでそんなことを言うんだろうと思ったんですが、いま考えてみると自分が死ぬ時のせめてもの意味をつけたかったんだと思います。
 消防自動車は最初のうちは川から水を吸い上げて橋の上の人にかけていたらしいんですが、そのうち自動車も焼け、消防士も死んでしまいました。橋の下では多くの人が逃げまどっていました。
次の日の朝になってある親子を見ました。
 そのお父さんは3歳くらいの子をおぶって川に飛び込んだそうです。飛び込んだ時は引き潮だったんですが、だんだん潮が満ちてきて立つのが難しくなってきた。たまたま杭が立っていたので、それにつかまってかろうじて立っていたら、人がたくさん寄ってきました。大勢がつかまると杭が折れてしまうし、自分たちも沈んでしまうので、このお父さんはすがってくる人たちを突き飛ばし、蹴飛ばしました。その人たちは川に沈んでいったそうです。
 六本木で展示会をやった時、この様子を絵にしたのを見て、63歳くらいの人が「この子は私だ」と言って、私に抱きついて泣きました。人の犠牲の上に今日の自分の命があることに悩んできて、60年間だれかに話したこともないし、都の慰霊堂にも行けなかった。しかし、今年60周年の節目なので慰霊堂に行き、この時突き飛ばした人たちの霊を弔った。そして帰りに私どもがやっている「空襲展」に来て、私の話を聞いて絵を見ているうちに、これは自分だとわかった。それで男泣きに泣いていました。
 ある14歳の女性は泳げないのに橋の上から飛び込んだんですが、近くにいたおじさんと一緒に、流れてきた角材につかまって何とか助かったそうです。火が下火になってから川から上がりました。近くで何かが燃えていたので、そこに行って濡れた服を乾かし、暖をとったんですが、夜が白々と明けてきてよく見ると、それは人と馬が燃えているところでした。
 暖をとっていた人たちは一人二人と去っていったそうです。
 その朝、私がいた川に下りる石段には、びっしりといたほとんどの人が亡くなっていました。おそらく、窒息死、一酸化炭素中毒死、ショック死だろうと思います。傷はほとんどありませんでした。私だけなぜか助かりました。鉄かぶとで川の水を私たちにかけてくれた人も、水の中に沈んでいました。
 高射砲隊の兵隊が来て、あまりの惨状にびっくりしていました。「この中にだれか生きている者はいないか。いたら上がってこい」と言われ、私は死んでいる人たちを踏みつけて上がっていったんですが、非常に驚かれました。
 階段から上がると、黒こげの死体がゴロゴロしていました。まだいぶっていました。私もそこにいたら、同じようになっていたはずです。切れ端か何かを見つけて、自分の身内と確認したらしい人が泣いて死体にすがっているのを、私はぼやっと見ていました。人間の尊厳などまったくない状態でした。
 それから言問橋の浅草側に上っていくと、死体の山でした。消防自動車は焼け、消防士も自分の持ち場についたまま亡くなっていました。死体はいろいろな形をしていました。ピンクもあれば真っ黒もあれば、マネキン人形のような人もあれば……。何がどうなってそうなったかはわかりませんが、いろいろな形で亡くなっていました。
 橋の真ん中の方はまだ煙っていて、暑くてとても行けません。あきらめて、家族が待っているのではないかと思って自分の家の焼け跡へと帰ってきました。
 家に行っても何の連絡もないので、また言問橋の方に引き返してきました。もう昼ごろです。橋の上は一番最初に片づけなければならないということで、軍隊が出てきて遺体をジャリッジャリッとスコップですくってはトラックに積んでいました。手だけとか足だけとか、何だかわからないものも一緒くたにしてゴミ同様にして持っていきました。
 鉄かぶとがたくさんあったんですが、鉄かぶとの中身は溶けてしまって形をなしていないので、後に鉄かぶと一つは死体一体とみなしたということです。ほかにもボタン4個で一体、がま口の口がね一個が一体というふうにして、死者数を割り出したそうです。
 作業している人たちは無表情で黙々とスコップで遺体をすくい上げていました。遺体は身元が確認できないので、上野などの空き地に穴を掘って投げ入れていました。ですから実際に何人死んだかは、本当のところはわかっていないのが実情です。  (「狩野光男さんが描く東京大空襲パネル | 株式会社きかんし」より)]

カメラ南西方向がwikipedia画像の親柱です。

言問橋左岸橋台のカメラです。